対談=井上達夫×渡辺靖 リバタリアニズムから時代を考える 『リバタリアニズム』(中央公論新社)刊行を機に|書評専門紙「週刊読書人ウェブ」
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更新日:2019年5月10日 / 新聞掲載日:2019年5月10日(第3288号)

対談=井上達夫×渡辺靖
リバタリアニズムから時代を考える
『リバタリアニズム』(中央公論新社)刊行を機に

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第2回
リバタリアンの公民的徳性

井上 達夫氏
井上 
 サンデルは当初はコミュニタリアニズム(共同体主義)、後にシヴィック・リパブリカン(公民的共和主義)といわれる立場をとっています。この二つは繋がっていますが、共同体主義とは、コミュニティに自分のアイデンティティの基礎をおき、コミュニティの問題を自分の問題として受け入れ、関心を持つというものです。つまり、コミュニティが持っている共通の善き生の構想に従って、個人を道徳的に高めていく。一方の公民的共和主義では、何がそのコミュニティの善き生の構想なのかを特定していきます。公共の問題について論議したり、決定したり、実行するプロセスに、自発的に参加していく資質や能力を求めるということです。これをシビック・バーチューといい、私は公民的徳性と訳しています。

今回渡辺さんの本を読んで感じたのは、サンデルのような公民的共和主義と、ロールズ的リベラル、あるいはリバタリアンは対立しているといわれていたけれど、そうではないのではないか、ということです。実はアメリカではリバタリアンの中に、コミュニタリアン的なものも、シビック・リパブリカン的なものも、かなり色濃く生きているのではないかと。

政治哲学の世界ではノージックの『アナーキー・国家・ユートピア』が出たときに、「第三部問題」が持ち上がっています。第三部にあたる「ユートピア」についての議論ですが、これは先ほど渡辺さんがいわれた、リバタリアンはコミュニティ的なものを否定しない、という話と重なります。ノージックによれば、リバタリアンの世界は、世の共同体と縁を持たず、ミーイズムで閉じこもるようなものではない。ただ人それぞれに様々な生活理想があるのだから、国家が特定の生活理想を強制的に押し付けるのはいけない。自発的、実験的な生活共同体がいくつもあって、それらが公正に共存できるような枠組みを作る必要がある、といっています。こうした、それぞれのユートピア的理想を追求する多様なコミュニティの共存を可能にするための枠組みを、メタ・ユートピアと彼は呼びます。

このノージックの理路で、コミュニタリアンとリバタリアンに接点のあることは見てとれるわけですが、渡辺さんはさらに突っ込んで、リバタリアンの中に、シビック・リパブリカン的な側面もあることを浮かび上がらせているように思うのです。共存するだけでなく、自分とは違う思考や生活の人たちとの間に、コミュニティを越えた、より大きな社会をどう作っていくか。自分たちが正しいと考える政治社会を、他人に作ってもらってただ乗りするのではなく、主体的に関与して作っていこうと。この姿勢がいわゆるシビック・バーチューです。

この本に登場するアメリカのリバタリアンたちは、様々な組織化を一生懸命に行っています。運動団体を作る、シンクタンクを作る、ネットワークを作る、研究所を作る、それを寄付を募って実現する。彼らの姿は、サンデルが批判したミーイズムとは違います。正しい社会を作っていくプロセスに参加するには、自分の仕事や趣味の時間、リソースを犠牲にしなければいけない、自己犠牲的な努力すら要する行為です。
建国時のピューリタンの精神を引き継ぐ

井上 
 これはある意味では、メイフラワー号でアメリカに渡ってきた、ピューリタンのあり方にも通じます。彼らは孤立した個人としてではなく、集団で新大陸へやってきて、自分たちの宗教を実現するためのコミュニティを、自分たちの手で作った。ピューリタンには道徳主義的不寛容という悪い面がありますが、いい面として、自分たちの共同体の公共的問題を自分たちで議論して解決していくという、公民的共和主義の原初の理想を実践していた。つまりアメリカの民主主義の原点には、集団的自己統治の伝統があった。福祉国家的な「大きい政府」か、あるいは「小さい政府」かという、対立軸だけで考えるのでは、本筋を見誤るのではないかということです。

アメリカの民主主義とはそもそも、共同体の集合的な自己統治に、個人が積極的に参加していくもので、没社会的個人主義とはかけはなれたものだった。個人と国家の間に介在する、中間的な共同体を、自発的に作っていって、それをベースに、集団的な自己統治能力を磨いていく。それが引いては、政府を作っていく力にもなっていく。

渡辺さんの本に登場するアメリカのリバタリアンたちは、まさにそういう意味での公民的共和主義者そのものです。というよりも、リバタリアンがいま最も公民的共和主義的で、シビック・バーチューを強く持っていると感じました。
渡辺 
 確かに私も接してみて、非常に純粋な感じを受けました。

アメリカでは一九二〇年代に大恐慌が起き、進歩派がニューディール政策を進める「大きな政府」の時代になります。いつの間にかその「大きな政府」を「リベラル」と呼ぶようになり、一緒にはされたくないと、「リバタリアン」、あるいは「クラシカルリベラル(古典的リベラル)」と呼んで区別するようになった経緯があります。しかしリバタリアンたちは、なお自分たちこそが、アメリカを建国した自由主義者の精神を引き継いでいる、という自負を持っているようです。
井上 
 リバタリアンといっても、決して一枚岩ではない。繰り返しになりますが、あえて共通点を挙げれば、「大きい政府」を否定し「小さい政府」を推す。市場経済を重視する。卓越主義を否定し、道徳主義的干渉からの自由と、個人生活の自立を求める。しかしその哲学的基礎は、実に多様ですね。
渡辺 
 そうですね。リバタリアニズムのカテゴライズに、政府の関与をどこまで容認するかがあります。最も過激なものが、無政府資本主義(アナルコ・キャピタリズム)、もう少し穏健な立場が最小国家主義(ミナキズム)、最も穏健で中道に近いのが古典的自由主義です。ミルトン・フリードマンはソフト・リバタリアンですが、息子のデヴィッド・フリードマンは筋金入りのハード・リバタリアンです。

それからもう一つのカテゴリーとして、「自由」を擁護する論拠の違いから、「自然権」論、「帰結」論、「契約」論に分けられますね。
井上 
 哲学的基礎でいうと大きく二つ、帰結主義と、自然権ベースの義務論で考えるのがいいと思います。生存権、自由権、財産権などの自然権をベースにした考え方の典型が、ノージックです。その原点にあるのが、ロックの「自己所有論」で、これは自分の身体や才能は自分の物であり、労働は自分の身体と才能を使うから、自分の物である。そうであるならば無主物に自分の労働を投下するとき、そこに生まれるものは、当然自分の物になる、という考え方。ここに依拠するのが、自己所有権型リバタリアニズムです。

もう一つの帰結主義の方は、政策を基本においた考え方です。実際的に「小さい政府」や自由市場の方が、個人の自由と幸福のためにいい結果をもたらすから支持すると。何がいい結果かは、立場によって意見が分かれますが、こうした思考は、帰結主義的リバタリアンと呼びます。 

ここで問題なのは、帰結主義的リバタリアンの立脚点が多様で曖昧だということ。「小さい政府」と自由市場を、効用最大化に資するとして擁護する、功利主義的リバタリアニズムもありうる。功利主義は、全体の幸福の最大化のために、個人を犠牲にするとして、リバタリアンからは嫌われがちですが、最大の問題は、「小さい政府」と自由市場が効用を最大化するか否かは状況に依存し、リバタリアニズムの哲学的基礎としては不安定過ぎることです。この問題は功利主義だけでなく、帰結主義的リバタリアニズム一般にあてはまる。

結局、哲学論的に一番明確なのは、自己所有型のノージック的リバタリアンということになるのです。しかしこれも、自己所有権そのものに、致命的な弱点があります。自分の身体・能力は自分の物であるという主張の根拠は身体の不可侵や能力開発行使の自己決定権です。しかし、自己所有のレトリックを文字通り受け止めて、論理的に突き詰めていくとき、この根拠たる価値に反する帰結が正当化されるという自壊性を持つのです。

リバタリアンは、臓器売買も自分の意思で決めていい、という考え方ですよね。
渡辺 
 はい。一定の年齢に達した上で、自分の意思であれば、奴隷となること、あるいは売春もOKと考えています。
井上 
 シェイクスピアの『ヴェニスの商人』ではないけれど、たとえば腎臓が自分の所有物なら、担保権を設定でき、債務不履行の場合、債権者に提供しなければならない。腎臓は二つあるから、一つとっても死なない。担保権設定につき同意があるから、これはいいと強固な自己所有論者はいうでしょうが、事はこれに止まらない。腎臓は一般財産に組み込まれるので、破産したら、債務者の意思に反してでも、必要不可欠でない自家用車などの財産が処分されるのと同様、腎臓も一つだけなら処分可能となるのです。才能も同様で、所有物と仮定したなら、債務者が自分が嫌いな職業で稼ぐ才能を持っているとしたら、債権者の意向で、債務奴隷として、その職業で稼ぐことを要求される。自己の身体や才能を所有物にするなら、自己の意思に反して自己の身体や能力行使の自己決定権が侵害される。これは自己所有論の自壊でしょう。
渡辺 
 リバタリアンは基本的に、他者(自己)の自由を侵害しない限り、自己(他者)の自由は認められる、という他者との相互不可侵を重視し、個人の意思に背く財産や身体への強制的介入は「暴力」として否定しています。が、ある行為が本当に「自己所有」か否かは紙一重という面もありますね。
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この記事の中でご紹介した本
リバタリアニズム アメリカを揺るがす自由至上主義 /中央公論新社
リバタリアニズム アメリカを揺るがす自由至上主義
著 者:渡辺 靖
出版社:中央公論新社
以下のオンライン書店でご購入できます
「リバタリアニズム アメリカを揺るがす自由至上主義 」出版社のホームページはこちら
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