丸山眞男×久野収×大塚久雄  思想の冒険 ――思想史研究の新しい前進のために 『週刊読書人』1959(昭和34)年6月29日号 4~5面掲載|書評専門紙「週刊読書人ウェブ」
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更新日:2019年5月12日 / 新聞掲載日:-0001年11月30日(第281号)

丸山眞男×久野収×大塚久雄 
思想の冒険 ――思想史研究の新しい前進のために
『週刊読書人』1959(昭和34)年6月29日号 4~5面掲載

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1959(昭和34年)6月29日
4-5面
思想史への関心が高まっている。近代日本の思想的伝統の再評価、戦後思想史の整理などをめぐっていくつかの労作も出版された。当然のことながら、この関心の高まりは、思想史研究への方法的な反省、あるいは思想史そのものの意味・役割への根本的な再検討を、避けて通ることのできない課題として提起している。
これらの理論的な、また現実的な要請に答える一つの試みとして、筑摩書房から「近代日本思想史講座」(全八巻・別巻一冊)が近く発行されることになった。本紙ではこれを機会に、同講座の編集責任者のなかから、久野収(哲学者・学習院大学講師)・丸山真男(政治学者・東京大学教授)、経済史学の立場から大塚久雄(東京大学教授)の三氏に、思想史研究をめぐる最近の問題点について話し合ってもらった。(編集部)
第1回
想像的思想史への道 “仮設的歴史”への大胆さを

思想史とはなにか

丸山 
 思想史っていうことを言うときによく感ずるんですがね、思想史への一般的な問題関心はいわゆる専門家が「一つの学問領域としての思想史」を考えている場合よりもズッと広いというか、大きいんですね。簡単な例でいえば、思想史家というコトバと思想家というコトバがほとんど無差別に使われているでしょう。それは、たんに「思想」という概念の多義性から来るだけではなくして、歴史叙述における主体的な契機が思想史の場合にはいわば当然のこととして想定されているからだと思うんです。思想を 対象とする歴史だけじゃなくて思想で 書く歴史という期待がある。しかし実際には、政治史家が政治家ではないように、思想史家が必ずしも思想家ではないし、逆にすぐれた思想家が必ずしもすぐれた思想史を書けるというわけでもない。まずそのことを確認する必要があると思うんですが、他方もう一歩すすんで考えると、いまいったような混同のなかには、たんに学問としての思想史にたいする無知、あるいはそこから来る過大な期待だといってすまされないものがあるのじゃないか。

つまり単に思想を客体として、Aという思想がこれこれの歴史的社会的条件のなかで生れ、後にこう発展したとか、Bという運動にこういうふうに影響したとかいった対象的分析だけでは尽きない課題というものがどうしても思想史っていうものに負わされているということを前から感じてるんです。思想史 家と思想家との関係は、いってみれば演奏家あるいは指揮者と作曲者の関係に当るように思います。たとえば、一つの曲の忠実な解釈に基いた演奏というのは何か。どんなに作曲者が微細にテンポや強弱を指定したって、それは演奏家の解釈によって左右されざるをえないわけです。むしろ偉大な演奏家やコンダクターになるほど、そこには必然的に創造的要素がはいって来る。しかし、それなら純粋に自分で作曲する場合のように勝手にイマジネーションを働かせて自由奔放に演奏出来るかというとそういうものじゃない。それは対象としての作曲によって厳しく制約されているわけですね。
久野 
 楽譜というワクがある。
丸山 
 その二つの面が思想史にもあるんですね。

思想史である以上は、ただ史料をエサにして勝手な思い付きをならべたり、信念を吐露するというのでなしに、対象の歴史性と論理性に自分を厳しくしばりつけなければならない。しかし同時に、自分で思想することなしには少なくも思想を対象にした歴史はありえない。創造性の契機が不可避的にはいって来る。いつもこの二つの緊張の間に挟まれているんじゃないかという感じがするんですけどね。
久野 
 その通りだと思いますね。しかし、ぼくのような歴史的に思想を追求するという歴史家としての訓練に不足する人間は、それと同時に、もう一つ、“仮設的歴史”(ハイポセティカル・ヒストリー)とでもいいたい歴史を苦しまぎれに考えないわけにいかない。“事実的歴史”(ファクテュアル・ヒストリー)とは逆に、歴史を事実と少しずれた、あるいは事実とは逆な仮説から読みなおす、見なおす立場です。こういう考え方が歴史学といえるかどうかは問題だとしても、とにかくもう一つあってもよいと思うのです。

ハイポセティカルというのは、仮説的、仮定的という意味で、“既成事実”(フェタコンプリ)を書いた歴史ではなく、歴史のある時点で、ある既成事実群とはちがった、あるいは逆の事実群が実現されていれば、どうなったであろうかというアプローチの仕方です。既成事実に逆行する仮説をたて、逆行する命題をつかって、過去にあったさまざまの可能性を一つ一つ仮言的に展開させて、そこから学ぶものを引き出したいと思う。

そういう研究は、かりに思想史でないとしても、思想の一つの研究の仕方としては許されるのではないか。一たん歴史から離れたハイポセシスを勝手につくって過去の思想を料理してみれば、それがかえって、思想史を書く場合にほんとうに役だつのではないかというふうに思うんですがね。どうも歴史のベッタリ・リアリズムは、こと思想史に関するかぎり、おもしろくない。
丸山 
 たとえば、アメリカのベンジャミン・シュウォーツという中国の近代思想を研究してる人がインテレクチュアル・ヒストリーの方法の問題を書いてるんですけど、そこでも思想っていうものをただ到達した結果から判断するのでなく、その時点時点の可能体においてとらえるのが思想史の重要な任務だということをいってるわけです。というのは、因果連関ということをいうけども、それは決して簡単なものではない。ある思想が歴史的に取ったコースだけを因果的に絶対化しちゃうと逆にインテレクチュアル・ヒストリーは成立しないというんです。
久野 
 そうするとぼくの考えているような研究も思想史の中にはいるわけですね。思想史のある側面に。
丸山 
 むしろそれこそ思想史。
大塚 
 ウエーバーが理想型だとか、適合的な因果関連といったものを構想するのも、それに近い立場じゃないでしょうか。だから彼が社会史とか経済史を問題にしているばあいに対象が客観的社会的現実だけでなくて、それにいつも意識形態がつきまとっているように感ずるんでしょうけど、ウエーバーはそういうことを非常に強調していますね。思想史じゃなくて、私がともかく専門としてやっている経済史・社会史でも、政治とか思想とかが絡まってくるや否や、さきほどのお話は重要な意味をもつんじゃないか。

すみずみまで宿命的に決定されている、動きのとれない歴史なんてものはないでしょうからね。私はどちらかというとマルクスのような段階説とか法則を基本的に重要視しますけど、にもかかわらず、それからハミ出してウエーバーの宗教社会学に興味を持つのはそれなんです。過程の内部である限度までさまざまに変化しうる可能性を含みながら、歴史は進展して行くんだ、ということを強調するために、しばしば意見の相違がでてくるわけです。思想史の場合には、こういうことが非常に高度に出てくるわけでしょう。それはそうだろうと思うんですが、ただ、さまざまな可能性の仮説設定やら、思想史の研究の背後にある思想的立場そのものが、そのまま、思想史の叙述の表面に出てきてもいいのか、それとも背後に隠しておかなければならないのか……。
久野 
 思想史だと、既成事実 の読み直しというワクがあるから隠しておかなければならない。
丸山 
 意識的に出したり隠したりするのでなく、背後からにじみ出るもの……。
大塚 
 思想史の叙述そのものが、巧まずして一つの思想を表出するというわけでしょうね。
久野 
 そうでないと歴史小説と区別がつかなくなりますね。仮説をつくりだすためにやる奔放な操作は思想史じゃないんだけれど、思想史をやる前の段階として必要だと思うんです。歴史を読み記述するための根本的カテゴリーがそこから出てくる。それをそのまま出せば、歴史ではなく、自分の思想になってしまう。
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