丸山眞男×久野収×大塚久雄  思想の冒険 ――思想史研究の新しい前進のために 『週刊読書人』1959(昭和34)年6月29日号 4~5面掲載|書評専門紙「週刊読書人ウェブ」
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更新日:2019年5月12日 / 新聞掲載日:-0001年11月30日(第281号)

丸山眞男×久野収×大塚久雄 
思想の冒険 ――思想史研究の新しい前進のために
『週刊読書人』1959(昭和34)年6月29日号 4~5面掲載

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第5回
評価の基準は何か 思想形成の過程の重視を

大塚 
 経済史の中の一ぱん経済史的なところを経済学を手がかりに把えようとするばあいと、こんどは経済史と政治史なり思想史なりとを総合的につかもうとするばあいと、この両者は方法論に非常にむずかしい違いがありそうです。とにかく思想史のばあいは簡単じゃないですね。
丸山 
 つまり思想の価値っていうものをどこで決めるかという決めてはまだハッキリしてないんじゃないかと思うんですよ。たとえば、比喩的なことばになりますけど、思想にも重さ と速度みたいなものがあって、非常に早く伝播する性質を持ってる思想となかなか伝播しない思想とある。Aの方がBより早く伝播する。しかし思想の重さから言うとBより軽い。どっちの面を重く見るかで評価が違ってくる。また体系性とか組織性には欠けてるけど、その中からいろんなものが生まれてくる、いわば多産的な思想と、他方、完結した体系性をもっている思想との価値を比較するのはむずかしい。そこが思想史のむずかしいところ。生産性の発展といういわば一つの尺度でいろんな生産関係を測る場合と、そこはちょっと違ってくるような気がするんですね。
大塚 
 ただ経済史にもね、さしあたってこういう問題がでてくるんですよ。たとえば、西洋のことですが、封建制が崩壊して近代に移行する場合に、鉱山業におけるさまざまな社会的抵抗を起点として、そこからこわれて行った例はどうも見られないんですね。動きはひじょうに激烈ですけど。必ずといっていいほど、移行の起点は農村地帯から出てくる。とくに農村工業の展開するところからですね。封建制の崩壊の開始や進行を普通すぐに抵抗や闘争が強かった弱かったというところに、結びつけがちだけれど、必ずしもそういってはいない。封建制の崩壊はフランスよりイギリスの方が順調だが、イギリスの方が闘争が激しかったからだなどとは、簡単に言えないでしょう。先ほどからお話のあったことに裏側から結びつくように思うんですけど、社会史上の成果から、ただちに闘争の強さを云々したり、いわんや思想史を機械的にそれに照応させるのはいかんというわけです。われわれはさしあたり、歴史の中から経済史プロパーだけを抜き出して、そこだけで、基本線を比較史的に見きわめるということをやっているのですが、こうしたばあい、片や経済史、片や思想史と方法の違いが際立ってきますが、しかし本当は両者が補い合わなければ、いけないのだろうと思いますね。
丸山 
 思想自身の持つ力ですね。……というと語弊があるけど日本で一般に、思想が社会的に機能するという時に、思想が機能しているのでなく思想が思想以外のものの力の弁護として使われた場合を思想の機能と言ってた。実際は思想の 機能じゃないんだな。
久野 
 思想が利用された機能ですね。
大塚 
 ウエーバーが「デモクラシーがデモクラティックな方法で作り出されたことは一回もない」というようなことを書いている。デモクラシーを作りだし、それを支えるものとして何かイラチオナールをも云いうるような或る思想的根底がつねに必要なんだ、ということに関連していたと記憶してますが、そういう思想のあり方のことでしょうか。
丸山 
 ええ。
久野 
 そういうものをなんとか合理化しようとする冒険として出てくるのですね。多数決原理を取ってもそうだ。多数決の真理性が多数決で保障されるということはない。何か底に深く強いいくつかのエートスがあって、それが衝突し合って、その結果、多数決原理というものが生み出されてくるのであって、日本のように買収をムチャクチャにやって選挙に勝ったから、多数だから、なんでもやれるというバカげたものじゃ民主主義ではないと思う。だんだん悲憤こう慨になってまずいけれど。
大塚 
 結果としての制度的形式だけがひとり歩きしてるんですか。
丸山 
 思想自身もそうですね。生み出して行くプロセスじゃなくてね、逆に思想として現われてる結果というものだけ見て行く傾向がある。これは歴史についても一般的にいえることですが、思想家が何を書いたかでなくて、何を書かなかったかということを問題にしなければならない。思想家の背後にあるアサンプションですね。
久野 
 そうすれば、表面に現われてくる思想はつまらんか知らんが、ヨーロッパの場合はそのアサンプションを理論内容あるいは、思想内容として展開させる自由なり、協同なりを持っていたけれども、そのアサンプションを含めて日本の思想家を理解すれば、徳川中期以後の思想家はもう一度ブリリヤントな姿を取って現われて来るんじゃないかと思うんです。今の丸山さんのいわれた発想は、ウエーバーの仮説とも通じあい、大事だと思うんですよ。

そういう思想史の前提的な問題、アプローチの方法、思想史の果たす課題は今まで深く考えられてきたとはいえない。はっきりいえば、思想はむこうにあり、それを勉強していけば思想史が書けるという考え方を、必ずしもそうじゃないんだと修正する意味で、「近代日本思想史講座」が出るんだけど、それが果して実現するかどうかは実際やってみないとわからないんじゃないですかね。
丸山 
 これは全体がアドベンチャーズ・オブ・アイディアで、大冒険で、みんな足を折ったり首の骨を折ったり怪我するかもしれないが……。(おわり)
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