中平卓馬をめぐる 50年目の日記(6)|書評専門紙「週刊読書人ウェブ」
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中平卓馬をめぐる 50年目の日記
更新日:2019年5月21日 / 新聞掲載日:2019年5月17日(第3289号)

中平卓馬をめぐる 50年目の日記(6)

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事故は、私がもうそろそろ中平さんは写真をやめるだろうなと思っていた矢先だった。それは写真に飽きたのではなく、一区切りをつけて他のなにかを始める衝動に駆られていたようだったからだ。

だが事故のあと、彼のベッド脇にはカメラが置いてあった。それは記憶を甦らせるために意識的においた小道具だったが、子どもがはじめてこの世で目にしたものはきっと意識下に潜み続けるのではないかといわれるように、中平さんにはブラックボディのカメラの姿がそうなったかもしれない。そしてそれが新たな自分へとなってゆく源になったのではないかと、私は思うこともある。

それからだいぶ時が経ってあるギャラリーでばったり会った私に、元気を取り戻したように見えた中平さんは
「弟さん、だったよね」
とたしかめ、「そうです」と言うと、
「彼はお姉さんの弟さんです」
と一緒にいた人たちに紹介した。

あの頃から時間が止まっていたことになる。(そういえば入院して数日が経ち、部屋で会話する許可がおりたときもそうだった。さらに時間が経ってからも、私を弟さんと呼ぶことは変わらなかった。ただしょっちゅう黒いカメラのファインダーをのぞく仕草が印象的だった)

私は自分についての記憶がどこで止まっているのかが気になった。だから呼ばれ方が「弟さん」から名前に変わった時期はいつだったか、そのあたりに思いを巡らせてみた。

どうやらそれは私が新たな大学に籍を置いて船橋にあった予備校の寮から三鷹の下宿に変わった頃ではなかったか。日韓条約批准反対運動が最後の局面を迎えている時期でもあったから、そちらの方とのかかずらいにも忙しかった頃。予備校の寮のときに気が合った友人たちが揃って目的の大学に入り、構内の寮生になっていたから私はしょっちゅうそこに出入りするようになっていたのだが、行くとなんだかんだとデモにかり出されるばかりだった。

水をかけられた汚れたシャツで三鷹に帰ると、下宿先の息子が「親父は警視庁の公安なんだ」、だから今度から帰ってきたら裏の自分の部屋の窓から入れ、と忠告してくれた。

そう聞いて私は面倒になり、一ヶ月ほど姉のアパートに居させてもらってその間に住む場所を探し、東京西郊外の多摩村(いまの多摩市だが、当時はまだ「村」だった)の農家の離れの一室に移った。多摩ニュータウンづくりが佳境の丘陵地帯で、朝になると窓の外の風景が変わっているように見えるほどに激しく変化する時期だった。

それやこれやを中平さんに話すと、彼はこう言った。
「大家も出て行ってホッとしたさ。しかしああ弟さんは日韓闘争から始まっているのかあ。ぼくはハガティだった。アイゼンハワーの特使の車を立ち往生させた弁天橋事件のね。それと国会突入のあのデモとか」

しかしそれっきり、中平さんの学生時代のことに話を向けても、のってくることはほとんどなかった。そんなときに中平さんは
「そういうのはもうやめて写真家になろう。時間がもったいないよ」
と、言いはじめた。その直後から、私は名前で呼ばれるようになった。すると二人が写真家になってからのことは消えているのか、と私は複雑な気持ちになった。(やなぎもと・なおみ=写真家・東京造形大学名誉教授)   (次号につづく)
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