忘れられた巨人 書評|カズオ・イシグロ(早川書房)|書評専門紙「週刊読書人ウェブ」
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【書評キャンパス】大学生がススメる本
更新日:2019年5月18日 / 新聞掲載日:2019年5月17日(第3289号)

カズオ・イシグロ著『忘れられた巨人』

忘れられた巨人
著 者:カズオ・イシグロ
出版社:早川書房
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カズオ・イシグロは作品ごとに時代や登場人物、場の倫理観までがらりと変えてしまう稀有な作家である。一方で彼には多くの作家の例に漏れず、作品に共通したテーマが存在する。それは記憶である。

六世紀ごろのイングランドを舞台に、長年連れ添った老夫婦であるアクセルとベアトリスが、遠く離れた村に住む息子に会うために冒険に出る。ファンタジー色が強く、鬼や竜、騎士が登場し、行く手を阻む。彼らは愛しあっているのだけれど、どのように出会ったのか、息子はどんな人物であるのか、どんな苦難を乗り越えてきたのか、ほとんど記憶がない。それは彼らが老いているから、というわけではなく、そのあたり一帯の人々は毎日を――時にはついさっき起こった事件を――忘れながら生きているのだ。そのため、日常的な会話にもずれが生じる。アクセルにとって印象的だった出来事をベアトリスはすっかり忘れてしまっているし、逆も然り、そんなことが作中、幾度となく繰り返される。頭の中に霧がかかり、うまく思い出すことが出来ない。そしてベアトリス(妻の方だ)は、そのことについて苛立っている。なぜ私たちはこんなにも多くのことを忘れてしまうのか。なぜ忘れなければならないのか。それが強大で狡猾な竜の仕業だということが神父ジョナスにより明らかになると、彼女は「竜を殺してくれれば、私たちの記憶が戻るんですって」といつもの穏やかさを忘れ、息巻く。そんな彼女をジョナスはたしなめる。忘れたままの方がいい記憶も確かに存在する、と。

どんな出来事にも、良い側面と悪い側面がある。何もかもが好転することなど、そうあるものではない。戦後間もないブリトン人とサクソン人は竜の吐く息によって記憶を失い、親や子を殺されたことも、大切な故郷を焼き尽くされたことも忘れ、かつての敵と共に穏やかに暮らしている。竜が死に、霧が晴れた時、彼らはすべてを思い出し、たちまち凄惨な争いが始まるであろうことは想像に難くない。記憶を取り戻した彼らの憎しみは、己への嫌悪感はどれほどのものだろう。記憶という巨人は、人々の生きがいになり愛で続けられる存在でありながら、鬼よりも竜よりも恐ろしいものでもあるのだ。

『忘れられた巨人』は記憶を失ってしまった彼らが、記憶という大いなる存在を相手に奮闘するさまを描いた作品である。それによって記憶というものの重要性を、またその恐ろしさを著者は示した。私たちは記憶なしに明日を喜べないし、昨日を悔めない。老夫婦は記憶を取り戻すことが出来たのか、息子と再会することが出来たのか。実に読みやすい文章で書かれている。是非、イシグロと共に、巨人に挑んでみてほしい。
この記事の中でご紹介した本
忘れられた巨人/早川書房
忘れられた巨人
著 者:カズオ・イシグロ
出版社:早川書房
以下のオンライン書店でご購入できます
「忘れられた巨人」出版社のホームページはこちら
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