異性間の恋愛、同性間の友情の困難 ギヨーム・ブラック『7月の物語』|書評専門紙「週刊読書人ウェブ」
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更新日:2019年5月21日 / 新聞掲載日:2019年5月17日(第3289号)

異性間の恋愛、同性間の友情の困難
ギヨーム・ブラック『7月の物語』

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6月8日より東京・ユーロスペースほかで公開© bathysphere – CNSAD 2018


水上スキーで失敗して足首を痛めたミレナのもとに、リュシーとジャンが駆け寄る。ミレナとリュシーは二人でレジャー施設に遊びに来ている。ジャンは施設の監視員だが、仕事などそっちのけでミレナにご執心のようだ。彼はミレナを湖から引き上げ、足首の様子を見る。大したことはないと判明すると、ジャンは早速、閉園後に立ち入り禁止の場所を案内するよと口説き出す。その時、草の上に座る二人にではなく、その奥で立ち尽くすリュシーにカメラが寄る。このバストショットが素晴らしい。リュシーの疎外感が観客にただちに伝わるからだ。大木の緑の葉を背景として、うっすらと影に覆われた彼女の寂しげな表情。彼女が退屈そうにあたりを見回すと、疎外感がさらに強調される。あおりの構図がミレナとジャンの目の高さに対応するのに、彼女が二人から忘れられていることも、描写の味わいを深める。「そろそろ行くわ」というリュシーの台詞が状況を一変させる。家に帰りたがる彼女をミレナが引き止め、非対称的な構図の切り返しが二人の間で行なわれるが、ジャンが台詞を発しても彼は画面に示されない。「ちょっと二人にして」とリュシーに言われ、その場を去る彼の様子が、彼女の背後に一瞬見えるだけだ。重要なのはあくまで二人の女の関係、彼女たちの亀裂であることを、このカット割りがはっきり示している。

ギヨーム・ブラックの新作『7月の物語』は独立した二つの短篇からなる。ミレナとリュシーが登場する第一部「日曜日の友だち」では、リュシーがテオにフェンシングを始めた理由を尋ねる場面も胸を打つ。二人のアップの切り返しだけで構成され、二人の表情と台詞に観客の関心を集中させるように見えて、背後で風に揺れる木の葉がとても豊かだ。テオの顔と胸元に落ちる木漏れ日も艶めかしい。リュシーの顔はここでもうっすらと影に覆われているが、表情が先程と異なり柔和なのが印象的だ。とはいえ、この至福の場面の存在にも拘らず、第一部の物語の主軸はあくまで二人の女の関係にある。夜の帳がおりて、帰りの列車の座席で眠る二人を示す情感溢れるラストショットからも、それは明らかだ。

第二部の「ハンネと革命記念日」では、主軸が少し異なるように見える。ノルウェー人女子留学生のハンネをめぐる様々な恋愛遊戯が描かれるからだ。けれども、一部も二部も、五人の若い男女の恋愛模様が展開することに変わりはない。女が恋愛遊戯を楽しもうとするが、欲望に突き動かされた男の行動が生々しくて、望ましい関係を作れないことも、どこか天使のような別の男が途中で登場することも同じだ。しかも、第二部の終盤でも、女同士の友情に亀裂が生じる。それは学生寮の共同台所で起こる。その前段階に、第一部のバストショットの出だしと同じく、男女の仲睦まじい会話を黙って聞く別の女のショットがあることに注意しよう。ハンネとサロメの亀裂は突然生じるように見えながら、実は繊細に演出された一連の過程を経て起こるのだ。一部も二部も、様々な恋愛遊戯が描かれつつも、その根底に女同士の友情の困難についての物語が存在する。二つを並べることで見えてくるものがある。『7月の物語』が語るのは、等身大の若者たちの不器用な生、つまり異性間の恋愛と同性間の友情の困難である。

今月は他に、『ハロウィン』『ニューヨーク公共図書館 エクス・リブリス』などが面白かった。また未公開だが、セルジュ・ボゾンの『マダム・ハイド』も素晴らしかった。(いとう・ようじ=中央大学教授・フランス文学)
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