古代日本の穢れ・死者・儀礼 書評|尾留川 方孝(ぺりかん社 )|書評専門紙「週刊読書人ウェブ」
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読書人紙面掲載 書評
更新日:2019年5月25日 / 新聞掲載日:2019年5月24日(第3290号)

古代日本の穢れ・死者・儀礼 書評
死者をめぐる古代史
従来とは異なる学問的手法で語る

古代日本の穢れ・死者・儀礼
著 者:尾留川 方孝
出版社:ぺりかん社
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東日本大震災を契機に、死者をめぐる議論が盛んになったのは周知のとおりである。より正確に言えば、かりそめの世界に生きる生者たる私たちの主体編成は、この世界から立ち去った死者との関わりなしには成り立ち得ないことが意識されるようになったと言える。

そんな流れは死穢をめぐる日本宗教史の分野でも静かではあるが、強い影響を及ぼすものとなる。はたして死者は穢れた存在なのか。だとすれば、それがどのようにして、祖霊として崇められるようになったのか。かつて民俗学や歴史学で問われて来たこうした問いもまた、生者の住む世界との関わりの中での死者の祀り方の問題、すなわち死者祭祀を契機とする生者という主体形成のあり方の問題として改めて位置づけ直されることになった。

日本思想史研究の気鋭の手になる本書『古代日本の穢れ・死者・儀礼』もまた、東日本大震災以降のそうした流れを汲むものとなっているように評者には思われる。中央大学大学院哲学専攻で博士号を取得した著者は、考古資料を扱う考古学、民間伝承を扱う民俗学、文献史料を扱う歴史学とも異なる手法で死者をめぐる古代史に取り組んだ。

まず著者は本書の冒頭部で柳田の死者論を批判して、個人としての死者が均質化された祖霊観とは異なる、複数の死者観が時に並存したり、時に交錯してきた日本社会の底流を明らかにしようとする。「人は死ぬと霊魂が身体から分離する。死体はキタナイ忌避すべきものとして遺棄され、霊魂こそが重要なものとして祭られる。」(九頁)そうした両墓制に代表されるような、近世以降の農民の日常世界を基底とする死者観を、その妥当性を批判する。そのなかで著者は古代を研究対象として、「律令期前半(奈良時代)/律令期後半(平安時代前期)/摂関期(平安時代中期)」におけるその変遷を通して、柳田が日本文化に普遍的な本質と規定した祖霊観を具体的史料に基づいて論駁しようとしたのである。

では、本書の死者観の変遷はどのように描かれているのか。著者は本書の主題を、「古代の日本において、朝廷もしくはその構成者が死・死後・死者をどのように理解し、またこの理解がどのように変化したのか考察した。」と説明し、その構成を次のように説明している。「第一章から第三章では、死者が生きている人びとにどのように受け止められ扱われ対応されたのか、穢れと儀礼を中心に論じた。第四章から第六章では、死者がどのような存在形態でどこに存在するかと考えられていたのかを、仏教説話や埋葬後の死者を対象とする儀礼などから論じた。」(五三三頁)

律令期には神祇祭祀のみで問題とされる穢れが、摂関期には朝廷で行われる儀礼全体に拡大したこと。さらに摂関期に律令的儀礼から浄土的な儀礼に移行する中で、死穢の内容が死体や遺骨への物質的な接触へと変遷するようになる。ほぼ同時に、こうした朝廷の儀礼と、それとは異なる神社固有の穢れ観が混じり合うことで、こうした死体そのものへの穢れ観が前面に押し出されることになったと理解する。その結果、「かつては穢れとされなかった道に転がる死体や犬がどこからかくわえて家に持ってきた死体が、むしろ穢れとして一番面に考えられるようになる。」(五四三頁)と推論付けた。そして、「遺体こそ死者とみなす観念」は、「儒教的儀礼や浄土経的儀礼の導入以前に……根底にあって変えがたいものとなっていた」(五五四頁)いう結論を導き出したのである。

この主張の骨子をなすのが、仏教や儒教と結びついた朝廷儀礼やそこに属する人びとの死者観と、その外部にいる庶民の死者観の相違を踏まえた議論である。柳田のように「日本人」の死者観が均質なものとして存在することを暗黙の前提とせず、分離した観念と習俗、あるいは異なる社会階層に担われた観念が次第に融合していく過程を描き出したのである。巻末の謝辞に挙げられた研究者名を鑑みると、この議論が東京大学倫理学の流れを汲む思想史の伝統に基づいたものであることが読み取れる。

そこで思い出されるのが、東洋哲学に基礎をおいた文献読解を進めた津田左右吉の日本思想史研究である。特に『我が国における国民思想の研究』は、中国から伝来した文章を駆使して書いた古事記と日本書紀の内容が、当時の民間社会の習俗や観念とは乖離したものであることを指摘し、江戸後期の国学に出現に至る、気の遠くなるような歳月を経て、その観念が社会に浸透していき、民俗的世界の方からもその読み替えが行われていった過程を、大胆な一つの仮説として描き切った大作であった。このことを念頭において著者の作品を読むとき、柳田の一元論的な死者観に対するその批判は、津田の問題意識を取り込むことによって、史料操作の次元で具現化可能になったものであることが明らかになってくる。

しかし若い著者の作品であるがゆえに仕方のないこととは言え、その議論の射程には不十分さも目につく。一つは六道思想を始めとする仏教理解の物足りなさである。そして、部落史の成果である穢れ観に基づく差別の視点の弱さである。穢れ観が固定化されてくると、特定の社会集団が社会秩序から排除されていくことは、評者が言うまでもなくすでに指摘のあることである。

しかし、それが朝廷を初めとする社会秩序をどう作り上げているのか、排除と公共秩序の関係の研究はいまだ研究の端緒がついたばかりである。本書が提示した古代における死者観の変遷をこの問題意識の中に組み込んだときに何が明らかにされるのか。著者の独自の視点が、今後どのような研究分野の人々と交わり、新たな文脈のもとで分節化されていくのか。その将来の可能性を予感させる作品と言えよう。
この記事の中でご紹介した本
古代日本の穢れ・死者・儀礼/ぺりかん社
古代日本の穢れ・死者・儀礼
著 者:尾留川 方孝
出版社:ぺりかん社
以下のオンライン書店でご購入できます
「古代日本の穢れ・死者・儀礼」出版社のホームページはこちら
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