中平卓馬をめぐる 50年目の日記(8)|書評専門紙「週刊読書人ウェブ」
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中平卓馬をめぐる 50年目の日記
更新日:2019年6月4日 / 新聞掲載日:2019年5月31日(第3291号)

中平卓馬をめぐる 50年目の日記(8)

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すすめられて入った江古田にある大学の授業にはサボらずに出た方だ。けれども実習授業が難儀だった。何しろ学生の多くは写真に慣れていた。教師もそういう学生が相手だから符牒のような略語を飛ばしてどんどん進んでゆく。何の経験も知識もない私には苦労だったが、気のいい友人たちの課題までも代行してくれるという助けを得て、何とかついて行くことはできていた。

中平さんも、私が大学へ入って間もなく、
「心機一転、一点突破の全面展開」
と言って「現代の眼」をやめた。同じ頃私も暗室の用意も出来なかった多摩村を出て、平塚の大学同級生の家に住むことになった。中平さんの住む横須賀線の逗子と湘南電車で平塚へは大船を起点にだが少し近くなった。だから逗子へ行くのも頻繁になった。
そんなある日、ドアは開けっ放しで声をかけても誰の返事もない。ま、いいか、きっと近くのたばこ屋にでも行ったんだろう、すぐ帰ってくるに違いないと思った私は、勝手に部屋に入って帰りを待ったことがあった。

するとカメラ雑誌の記事ページばかりのようなものが無造作にホチキスでとめられたものがぽんと床に放りだされてあるのが目にとまった。手に取ってみると、色鉛筆の赤線で埋まったページの束だ。

よく見るとほとんどが「フィルム現像の方法」、「薬品の調合特性」や「特性曲線」など、ネガ作りからプリントまでの解説記事である。中平さんの「独習」に共感が湧いた。

本棚の脇にもプリントらしきものが無造作に重ねてあった。手に取ってみると、陽が落ちかかっている水平線や、海岸の波消しブロックから突き出た鉄筋を逆光でうつしたものなど、まさにカメラ雑誌に投稿されるアマチュア写真の典型の数々が出てくるのだった。中平さんとは結びつかないような写真だったのできっと見られたくないだろうなと思い、すぐもとの場所に戻して帰りを待った。

そのとき私は、撮りたい写真と撮れる写真の差というものがあるんだなとぼんやりと思った。写真も少しは経験を積まないとカメラに写真を撮らされてしまうのである。

その頃、中平さんが手にしているカメラはしょっちゅう変わっていた。まだ自分のカメラを持っていなかったはずだ。(退社前に結婚した中平さんはその祝いにと東松照明からペンタックスというカメラを、ペンタックスのレンズの名称が『タクマー』だからという理由でもらったそうだが、私は一度か二度しかそれを使っている姿を見たことがない)

しかし私が平塚に住むようになったので不自由はなくなった。というのも平塚の友人所有のカメラが豊富だったからだ。

平塚にはひょんなことから住むことになっていた。友人の父が工学技術研究者で遠方の大学の教授に就任することになり母親も一緒に行くという。それでときどき遊びに行っていた私に、息子一人をおいて行くのは心配だから一緒に住んでやってくれないかと頼まれたからだ。私にとってもありがたい話だった。

一気に私の写真作業環境は逗子の二人(森山大道さんも逗子だった)にくらべて恵まれることになった。収入だって仕送りがあるのだから二人より安定していたくらいだ。

じっさいにあるときは中平さんから電話があって、「森山に二三日カメラを都合してほしいのだが」ということもあった。そんなときは平塚の友人がもつ豊富なカメラ群があったので「分かりました。」とすぐに言えた。(やなぎもと・なおみ=写真家・東京造形大学名誉教授)

   (次号へつづく)
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