魑魅魍魎と人間の国 ――「「平成」の影」について――|書評専門紙「週刊読書人ウェブ」
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更新日:2019年6月9日 / 新聞掲載日:2019年6月7日(第3292号)

魑魅魍魎と人間の国
――「「平成」の影」について――

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仮に「天皇はホウキである」として、NHKいうところの「生前退位の意向がにじむお気持ちを表明」した二〇一六年のビデオメッセージからややのち、京都御所へ徒歩で向かえる京都大学において景観や安全を理由に立て看撤去や吉田寮生の退去などの弾圧が突如強化されたことがそれと関連あるのか否かは問わず、いずれにしろ「ホウキ」ぶりとは新自由主義政策とも親和的なかくなる類いの機能であって、改元による時代の一新を謳うにしろ、その煽り――Postへ!――にこそなれ、以前本欄で扱った加速主義における「転生」のごとき特異点を成就すべくもないし、してはならない。例えば「ポスト平成の行方」なる章まで含む原武史『平成の終焉――退位と天皇・皇后』(岩波書店・二〇一九)は、その稿を「「平成」の影が簡単に消え去ることはないのです」との言で閉じている。

同書は、議会制民主主義の危機に対する慨嘆はじめ募る政治不信の一方で、次第に天皇及び皇后による政治的責任を負わない「象徴の務め」の神聖化または偶像化が強まっていったその傾向を超国家主義的と捉えている。しかし注意すべきは、いまや不可能な神格化でなく、とりわけ先の天皇がその在位の最後に示した人間化に結実する過程においてその超国家主義的権力がもたらされたことだ。では、ここで人間化とはなにか?

日本武尊の東征を援助した弟橘姫の神話に「意志的なもの」を感じ、それをみずからと重ねている前皇后の隣で、行啓や行幸啓の足跡をみずから日本地図にピンで刺してマッピングし「幸せなことでした」とほくそ笑む前天皇はまた、退位前、その国土で働く「多くの外国人」を「社会の一員」として迎えることを国民に「願って」いる。明仁が例えば深夜のコンビニエンス・ストアでワン・オペレーションを熟す外国人労働者を認知しているかは措き、「社会の一員」としては後者が前者よりも即時的に有用な技能が求められているのは疑いない。むろん、しばしば有用性や難易度に見合わない低額で委託されるそれらの労働に携わるのは外国人のみでない。

建前上も個体としての天皇が死を免れないとは人間宣言以前からだれもが知っている。だが、前天皇は「明治」期以降の一世一元制のもと初めての生前退位で以て新たに人間と化した。すなわち、死なる終焉を迎えるが故にでなく、人間であるが故に健康を損ないもすれば痴呆も進行する、ために死に至るより先に「務め」に支障を来たす以上退位の必要を赤子が配慮もしくは忖度するよう促し、その同意を獲得した。ところが巷では「社会の高齢化が進む」のを理由に、官庁すら「人生百年時代」にそなえ「自助」を奨励するいま、食い扶持の選択肢は概ね過酷で低賃金の仕事に限られるなかで「高齢者が輝く社会」を生きることが謳われており、そこから余裕をもって退出し遂せる者は限られている。むしろ病も体力の低下も耄碌もものともせず「輝く」とすれば、また熾烈な競争にあって低賃金ないし無償でも漲るヤル気と枯渇を知らない創造力で次々とタスクを熟し「輝く」老若男女は、端的に人間を超えている。そして無理を通し有益なサービスを提供すればするほど優秀な「社会の一員」――サーバントたるのだ。具体的に有用な業務を超人的に処理するからこそ彼/女らは社会のサーバントでなければならず、翻すに全国への「旅」や種々の儀礼など内実は空疎かつ無用な――だから尊いとも評される――象徴のためのまねびに「全身全霊」で没頭し、恙なくあるべきまねびをボケて棒に振る――むろん有用性の面に限るなら商品誤発注や車両操作ミスに比して損害は知れている――のを懼れるほど無力だからこそ、天皇とは決して無理を強いてはいけない、敬い慮るべき人間なのだ。おいたわしい人間としての天皇。現天皇へと天皇霊の継承を済ませ引退した高齢の父母の立場を現役で得たいま、その意味はいや増しに強化される。

ヘイトなる語が人口に膾炙したすさんでいがみあう社会において、天皇または上皇こそがおいたわしくも人間の心を保持している。そのため、深夜営業の店舗でワンオペを任された外国人労働者に接したとして、あるいはその拙い日本語や多少のミスにも寛容で「ご苦労様です。辛いことはありますか。頑張ってください」程度は口にするかもしれないものの、かの「思いに寄り添う御言葉」はその宛先が新自由主義に奉仕するサーバントとして「社会の一員」に組み込まれていることになんら変化をもたらさず、むしろそれに癒される赤子らも含め、これらの構造を強固にする。

「お気持ち」など通ずるべくもない韓国からの声は断乎として無視する一方、例えば即位三十年を祝う宮中茶会に高須克弥が交じっていたとしてもそれは端から天皇を引き立てるべき下界のサーバント――その発言を信じるなら、高須は自身が経営する病院の患者に衷心から感謝されており「社会の一員」として貢献している――にすぎない以上は構わないし、皇室を危機に晒さないかぎりはだれにしろ同断であって、事実多くの国民が現上皇を「いいひと」と承服する。したがって、近年のヘゲモニー闘争においてしばしば依拠されてきた前天皇と安倍晋三との対立図式――護憲と改憲? 平和と戦争? 民主と独裁?――は、たとえ実際に明仁が「お気持ち」では安倍を忌み嫌っていたとしても、意義を持ちえない。日本国に貢献する「輝く」サーバントは世知辛い「社会の一員」として多かれ少なかれ人間が抱える無理を超え、有益か有害か問わず、いうなれば人間をやめている。然るに無用の天皇または上皇は、主観的には受け入れ難いかもしれない種々の卑しく浅ましいサーバントに――逆に日々政治的公正さと清廉を旨とし自他を管理する厳格なサーバントにももれなく――穏やかな人間の「心」を贈与する。笑顔で手を振るその姿に表情を緩め、園遊会で謦咳に接したりビデオメッセージを通じ「御言葉」を聞いたりなどしたとき、「社会の一員」は心洗われる思いで人間性を回復するのだ。安倍晋三もまた天皇と対面し、時に「天皇陛下万歳!」を三唱しておくことで心置きなく「アベ政治」に邁進することができるとすれば?

これと同様に、下世話な雑事に悩まない引退後の豊かな余生は現代の日本における生の典型たりえず、なるほど国民の実情を反映した代表‐表象とは見做し難いが、おいたわしい一組の高齢夫婦が確かに存在しゆったり人間らしい余生を深く味わいつつ、かくなる生と縁なく保険やローンやら生活費云々と齷齪社会に追い立てられるサーバントの「思いに寄り添い」以て貧しく意地汚い等々いかに煩悩まみれの彼/女らをも美しく象徴していることがせめてもの救いであるかにありがたく拝されるわけだ――そうして国民の心も美しいものとなる、別言すれば化物じみたサーバントもその「祈り」により、また天皇を「思う」ことで一時人間の心を取り戻し、「頑張ってください」のひと言で再び社会へと押されていく。皇族が重難病患者などに「心を寄せ」関連施設や行事の訪問を重視し、被災者の慰問に赴き「同じ目線で」語りかけるのは、そうして相手を「人間」にするためではなかったか。市場では俗に難解と敬遠されがちな現代詩の書き手も、だから「平成は終わる うやうやしく」(『朝日新聞』五月二日)で金井美恵子が引用する類いの感謝と尊崇の念をその「言語的批評意識をこえた」存在――平易な「御言葉」を語る――に抱くのだろう。

かくして、ありがたい人間として偶像化され神聖視された天皇や上皇らを、安全に社会に奉仕する魑魅魍魎どもが仰ぐ。サーバントに対してはより人間ならざるもの――「死ぬこと以外かすり傷」!――への加速が促進されるなか、その中心では代替わりとしての「転生」が為されつつも不変と見做された人間性が保たれ、魑魅魍魎はそれこそがおのれへの限られた福祉であるかに多額の税金投入も不問に付す。(ながはま・かずま=批評家)
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