『たべおそ』に惜しみない拍手を。   櫻木みわ「米と苺」、古市憲寿「百の夜は跳ねて」/追悼・加藤典洋|書評専門紙「週刊読書人ウェブ」
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更新日:2019年6月9日 / 新聞掲載日:2019年6月7日(第3292号)

『たべおそ』に惜しみない拍手を。  
櫻木みわ「米と苺」、古市憲寿「百の夜は跳ねて」/追悼・加藤典洋

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再起動する文芸誌もあれば、役目を果たして去っていく文芸誌もある。『たべるのがおそい』が終刊した。毎号、文芸を好きになった初心に帰らせてくれるような柔らかさがあっただけに、残念である。

七号目の今回の特集は「ジュヴナイル――秘密の子供たち」。どこか懐かしいあどけなさの詰まった一冊になっている。魅力的な書き手が並んでいるが、印象に残る作品を一つあげるならば櫻木みわ「米と苺」だろう。白で連想される出来事を作文にするように、中学生の夏は宿題を言い渡される。即座に、夏の頭のなかには、なぜか、「しろ、米、韓国」という言葉が三つ並ぶ。なぜだろう――それは、まだ夏が福岡にいた頃だった。夏は炭住、つまり、炭鉱で働くために移住してきた韓国人の三世として暮らす男の子、才と出会った。才と仲良くなればなるほど、夏のなかで韓国との距離が縮まる。そして、ふとしたことがきっかけで、韓国の人もお米に育てられてきたのだと気づく。一緒。私たちと。

文化的な距離が夏のなかで一気に縮まる。その急激な文化的アイコンの重なり合いは、読者の心をうち震えさせる。そして、読者は、なのに、どうして二つの国には距離があるように見えてしまうのだろうという、夏の疑問に答える術を持たない己を恥じる。歴史と文化を純粋さが撃ち抜く良作だ。この書き手には、もっと広い空間で、長い文章を書かせる使命が文芸誌にはあるだろう。

文化的な距離を情が縮める。李琴峰「五つ数えれば三日月が」(『文學界』)もそのような小説だ。台湾から日本語を研究しに来日した林は、かつて中国に留学したことがあるという浅羽と大学院で出会う。互いにとって、かけがえのない存在になるが、浅羽は日本語教師として台湾へ、林はそのまま日本の銀行へ就職することになる。物語は、その五年後に再会した浅羽が、林の不在の日々がどのようなものだったのかを語るように進む。文化に馴染むということは、どれほど難儀なことか。しかし、一度、溶け込んでしまうと、二つの文化が自身のなかに共存することになる。その不可思議さを、小説は炙り出す。さらに、物語は、文化の問題とは別に、セクシャリティの問題も絡まって複層的になる。秀作だ。

古市憲寿「百の夜は跳ねて」(『新潮』)を私は面白く読んだ。あるビルのガラス清掃員が、高級タワーマンションに住む老婆に頼まれて、仕事場であるマンション、病院などの各部屋を盗撮してまわるという話だが、恐るべきは、その死生観だ。先輩が落下して死んだ。そのことを度々思い出しては、死とは何か、死と絶えず接しているこの仕事は何なのかと考える。そして、辿り着いた答えが、「僕がここにいたことなんかすっかりみんなが忘れてしまって欲しい。本当は死んでもいいはずなのに、死ねない僕にぴったりの仕事」だというものだ。作者の前作も安楽死を巡るものだった。作者は変わりゆく時代のなかで死生観はどう移ろうのかを小説のなかで思念しているのだ。

『群像』の新人文学賞が決定した。石倉真帆「そこどけあほが通るさかい」。優秀な家庭に育ちながらも一人だけ落ちこぼれている光里とそのことをネチネチと咎める老婆が生み出す窒息しそうな「家」の物語だ。光里の「あほ」さは親族をも巻き込み、壮絶な、文字通り血の流れる戦いに発展する。誰もが光里に同情するだろう。しかし、真なる被害者は母だったことを見逃してはならない。そのことを、ミスリーディングさせないよう巧みに描いている。

最後に、加藤典洋氏が亡くなった。個人的な話になるが、十年以上、氏の付き人のような、お世話係(!)のようなことを、私は、していた。厳しい人だった。私の書いた文章を褒めてくれたことなどほとんどなかった。でも、そばにいたい、そう思わせるあたたかさのある人だった。数えきれないほど多くのことを学ばせてもらった。勝手にいなくなるなよ、と思う。すまんな、と、微笑する氏の姿が思い浮かぶ。
先生、ありがとうございました。
(ながせ・かい=ライター・書評家)
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