もうひとつの〝東大闘争〟「東大反百年闘争」の当事者・森田暁氏に聞く② ――数票差で民青に負けた代議員大会――」 外山恒一連続インタビューシリーズ「日本学生運動史」|書評専門紙「週刊読書人ウェブ」
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もうひとつの〝東大闘争〟
更新日:2019年6月7日 / 新聞掲載日:2019年6月7日(第3292号)

もうひとつの〝東大闘争〟「東大反百年闘争」の当事者・森田暁氏に聞く②
――数票差で民青に負けた代議員大会――」
外山恒一連続インタビューシリーズ「日本学生運動史」

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森田  
 当時の駒場の民青というのは、〝新日和見〟ですからね〔註1〕。〝新日和見〟の連中って、やたら暴力的で、過激なんですよ。その〝新日和見〟の拠点が東大駒場と早稲田の法学部だったんです。まあ彼らはその後、共産党の中でこっぴどくやられるんだろうけど、橘川(武郎)っていう、もう退官したかな、3・11の後に原発問題でよく名前が出てた人がいて……。
明石  
 一橋大学を辞めた後、東京理科大学の教授をされていますね。
森田  
 そうそう、彼が当時の東大駒場の自治会委員長で、副委員長が金子勝ですよ。橘川は結構カッコ良かったんです。彼らの部隊もこっちと拮抗するぐらいでね。で、十一月から代議員大会がしょっちゅう、毎週のように開かれてたんですよ。駒場の代議員というのは全部合わせて、「三〇〇〇÷六」だから……五〇〇か。三六〇〇で、六〇〇人ぐらいなのかな。おそらく六〇〇人ぐらいいて、そのうち五〇〇人ぐらいが集まってました。それが最終的には二五〇対二二〇ぐらいまで、つまり民青と全共闘系が拮抗するところまで行くんです。革マルが二〇ぐらいで、最後は革マルまでこっちに票を入れて、あと数票差ってところで民青に負ける。そんなふうに代議員大会では負けたんだけど、民青も〝新日和見〟で過激だから、学費問題で彼らが出す方針も〝無期限スト〟なんです。こっちも〝無期限スト〟を掲げてて、違うのは、こっちは〝全学バリ封〟(バリケード封鎖)の上での無期限ストってところで、全共闘系はやっぱりバリケードをやんなきゃ気がすまない(笑)。

それで結局どうなったかというと、Kさんっていう今は弁護士をやってる人がいて、Kさんはさっき云った元L協の人で、駒場の運動からはもう引いてたんですが、戻ってきて、新入生たちへの一種のプレゼントみたいな感じで、バリケードを作ってくれたんですよ(笑)。もちろんぼくらも作業をいくらか手伝いはしましたけどね。東大闘争の時は第八本館のバリケードが有名になったんですが、そのすぐ隣の第七本館ってところをぼくらの拠点にすることにして、バリケード封鎖しました。やっぱり民青は襲撃に来ましたよ。向こうも同じ新入生ですから、石を投げてきたりするんですけど、チョロいもんで、とくに何てことはなかった。

……代議員大会が終わったのは二月六日ぐらいで、冬期試験は中止になって、二月二〇日ぐらいまで、二週間ぐらいのバリケードでした。最後は機動隊が入ってきて、こっちも最後まで立てこもって云々というつもりではないから、建物からは引いて、一応はキャンパスの最前列でピケットだけ張りましたけどね。実はこのバリケードの時に革マルに脅されてるんですよ。Kさんはわりと中核派に近いところもあったと云われていたし、それが理由なのか、こっちは新入生だったからよく分からないんだけど、革マル派が集団で脅しにやってきて、「お前ら、ブクロ〔註2〕のようにしてやるぞ」と云われたりして、徹夜で議論した結果、しょうがないから革マルもぼくらのバリケードの中に入れることにしたんです。そういうこともあって意気消沈してたところに、ちょうど連合赤軍の事件が起きた。ニュースを聞いて最初は、警察と銃撃戦をやってるぞ、すごいな、と思ってたんだけど、やがて(同志殺しの)死体がいっぱい出てくるわけでしょ。そのあたりが、時代状況的にまだ六八、六九年の〝おまけ〟みたいな雰囲気で……。
外山  
 〝余波〟がまだいろいろある時期、と。
森田  
 そういう余波みたいなものの一番最後が、七二年の秋口からの、相模原での米タン(米軍タンク)阻止闘争というのがあるんです。これは各大学から、かなり人が集まってましたよ。大学によって状況はいろいろ微妙に違いますけどね。早稲田の場合は当然、革マルと民青以外の、要するに全共闘系は(革マル派によるテロが予想されるので)一切登校もできない状態でしたけど、むしろそういう連中ほど、学外に何か闘争の現場があれば来ますし、そもそも学生活動家がまだ各大学にいっぱいいたんだと思います。大雑把にはもう六九年の時点で、学生より〝反戦〟(反戦派=新左翼系の労働者のこと)が運動の主軸になってると云われてましたし、七一年あたりは、とくに中核派なんかはそうだったでしょうけど……まあ七二年の相模原ではそれがどういう構成になってたのか、何しろぼくは現場には行ってないんで、よく分からないんですけどね。

ともかくぼくらは〝七本バリ〟(第七本館バリケード封鎖)ということをやって、こっちも革マル派と一緒にやらざるをえない状況だったし、そこらへんで特定の色がつかないように、いろいろ政治的に配慮する奴らもいて、たまたま当時、宇都宮大学でも学費闘争が起きてることを新聞で知って、宇都宮大学は解放派の拠点だったんで、その解放派の連中を呼んで一緒に集会をやったりしましたよ。そういう微妙な政治バランスの問題もあったんですね。その直後に大阪で、総評青年協の集会で革マル派がひとり亡くなるんです。その後はもう革マル派が駒場の対立党派を襲撃してキャンパスを制圧し、相手は駒場では身動きできないような状況になっていく。そういう混乱の中、一九七二年の夏に、「8・25共闘会議」というのが結成されるんです。「8・25共闘」のことは聞いたことあります?
外山  
 いや……知らないです。〈次号につづく〉
***
〔註1〕六〇年代末の全共闘運動との暴力的衝突を繰り返すうちに、敵である全共闘から悪影響も受けたと見なされて、一九七二年五月以降、民青や民青系全学連の指導的メンバーらが共産党中央による査問にかけられ、「新日和見主義」のレッテルを貼られて失脚させられた。
〔註2〕中核派の蔑称。拠点である前進社が当時池袋にあったことから。
【編集部より】本稿は、森田暁氏の記憶に基づいたものです。当時の情報等をご存じの方は、編集部までご一報下さい。info@dokushojin.co.jp
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