アカシアは花咲く モンタージュ 書評|デボラ・フォーゲル(松籟社 )|書評専門紙「週刊読書人ウェブ」
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読書人紙面掲載 書評
更新日:2019年6月8日 / 新聞掲載日:2019年6月7日(第3292号)

アカシアは花咲く モンタージュ 書評
誰もがいて誰もいない場所
リヴィウに生きた作家デボラ・フォーゲル

アカシアは花咲く モンタージュ
著 者:デボラ・フォーゲル
翻訳者:加藤 有子
出版社:松籟社
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ブルーノ・シュルツの恋人で、その作品の誕生に関わったともいう女性作家デボラ・フォーゲルは、ポーランド文学史において長らく忘れ去られた存在だったという。その主な理由が、フォーゲルが「東欧ユダヤ人の民衆言語であるイディッシュ語を創作の言語に選んだためだと、訳者は言う。一九三五年にイディッシュ語版が出版され、翌三六年にはポーランド語版が出た本書『アカシアは花咲く』が、二〇〇六年、七十年ぶりに再刊されたことをきっかけに、フォーゲルの名は思い出されることになった。

彼女が大半の時を過ごした東欧の街リヴィウは、オーストリア領、ポーランド領、ウクライナ領と、二十世紀前半の歴史のなかで帰属を転々とする運命にあった。その光景に、長じてから旅したベルリンやパリといった大都市の光景が、切れ切れに重なっては移り変わるのか、短篇集というより断章といった趣きの本作には、「通行人たち」「女たち」「人間たち」は現れても、名前を持った登場人物はいないし、物語が展開するわけでもない。

たとえば、「主人公の運命がこと細かに描写され、時代遅れとさえいえるような、長ったらしい小説に対する憧れ」に襲われる、通りに居合わせた人たち――。その人びとは現代の都市にあって、自分たちがすでに小説の主役ではありえないこと、都市に登場人物は存在しえないことを熟知している。

主役は、工場の「微動だにせず突っ立っていた」機械であり、「帽子と女性服を包む淡い黄色のボール紙や大箱、袋といった紙類」のような商品と包装であり――それを身に着けようと浮かれているのは「女性のトルソー」でしかない――、あるいは、誰のものでもない「歩道のアスファルトから五十センチくらいのかなり低いところで、いまだに青白い空中に散った」街路の塵であり、ひいては、誰もがいて誰もいない場所としての都市の日常そのものである。

ハリー・ハルトゥーニアンは二〇〇〇年の著書『歴史の不穏』で、二十世紀初めに近代の「日常性」を発見したリスボンの詩人フェルナンド・ペソーア、日本の私小説作家、ダブリンの作家ジョイスらが揃って、産業化した世界の「周縁」――ウォーラーステインの用語でならむしろ「半周縁」だろうか――にいたことを指摘している。このリストには、リヴィウで書いたデボラ・フォーゲルの名前を連ねてもよいのかもしれない。

「わたし」が単一で同一の存在であるという考えを拒み、複数の筆名を用いて、「わたし」は複数の存在であり、他なるものである、と書き続けたポルトガルの詩人ペソーアもまた、ある意味では、それまでありえたような長ったらしい物語で語られるべき運命を持った主人公が現代の都市には存在しえないという意識を、『アカシアは花咲く』のフォーゲルと分かち合っていたと言えるだろう。

現在の読者にとっても目新しい、フォーゲルのこの作品での試みは、彼女が二十世紀の初めを生きた現代人であるだけでなく、いまなお大都市のなか、匿名であることに安住しつつも無名であることにはどこか落ち着かない気持ちを覚えて生きるわたしたちの同時代人でもあることを、鋭く示しているように思われる。
この記事の中でご紹介した本
アカシアは花咲く モンタージュ/松籟社
アカシアは花咲く モンタージュ
著 者:デボラ・フォーゲル
翻訳者:加藤 有子
出版社:松籟社
以下のオンライン書店でご購入できます
「アカシアは花咲く モンタージュ」出版社のホームページはこちら
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