映画の至福。自然な作為と描写の節度 ミカエル・アース監督作品『アマンダと僕』|書評専門紙「週刊読書人ウェブ」
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映画時評
更新日:2019年6月18日 / 新聞掲載日:2019年6月14日(第3293号)

映画の至福。自然な作為と描写の節度
ミカエル・アース監督作品『アマンダと僕』

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6月22日(土)より、シネスイッチ銀座、YEBISU GARDEN CINEMAほか全国順次公開 
©2018 NORD-OUEST FILMS – ARTE FRANCE CINÉMA

「エルヴィスは建物を出た」という言葉の意味を、幼いアマンダが母のサンドリーヌに尋ねる。母は説明するとエルヴィスの曲を流し、二人は一緒に踊り出す。その魅力的なダンスは映画の至福だ。場面がさり気なく変わり、サンドリーヌの弟のダヴィッドが外に出て、地方からパリに出てきたレナに会う。夜になりダヴィッドが窓から外を見ると、向かいのアパルトマンの一室にレナがいて挨拶する。女はペンを持っていないか尋ね、男は自分のペンを窓越しに投げて渡す。これほどの距離の投げ渡しがかくもあっさり成功するのが、映画の面白さだ。この成功とともに二人の仲が接近しだすことを、観客は確信する。

ミカエル・アースの『アマンダと僕』の素晴らしさは、撮る側の計算を感じさせない自然なフレーミングとカット割りにある。二一世紀初頭における映画のひとつの模範と言える程だ。何より、これ見よがしの表現が一切ないのがいい。全篇を通じてダヴィッドと姪のアマンダは何度も泣き、その回数は通常の作劇法からすれば多すぎるが、それでも妙に感じないのは描写に常に節度があるからだ。繰り返される涙は二人の相同性を示している。

音の演出に注目すると分かりやすい。仕事のせいで姉との約束に遅刻し、ダヴィッドは自転車で公園に急ぐ。抒情的なBGMが流れる。彼は途中で二台のバイクとすれ違い、そのバイクの音とともにBGMが終わる。代わりのBGMが流れ出すこともなく、ただ鳥の鳴き声がどこか不安な響きを伴うだけだ。彼が公園につくと、凄惨な事件の現場が端正な引きのショットで示されるが、不気味な効果音がほんの僅か響くだけである。こうした演出が作品の質を保証している。

ダヴィッドがこのくだりで自転車に乗っていることに注意しよう。彼は何度も自転車を走らせ、その度に映画ならではの運動が画面に刻まれる。彼は自転車に乗って、最初は姉と一緒にパリの通りを走り、映画の終わり近くで、今度は姪とともにロンドンの通りを走る。どちらも、速度を競い合うその姿に運動の喜びが溢れる。だが、公園に向かう彼の走行は悪夢へと導く不吉なものだ。二人で走るか一人で走るかで、そこに付与される性格が変わるのだ。中盤では、彼と姪が自転車に乗らずに、朝の通りを並んで走る。二人は学校に遅刻しないよう焦っているが、それでも二人で走ることの喜びが画面に感じられる。

遅刻もダヴィッドが繰り返す行為だ。映画の冒頭で、彼は仕事のため姪を迎えに行くのが遅れ、慌てて学校に駆けつけるが、後で姉に叱られる。それ故、またも仕事のせいで姉との公園での待ち合わせに遅れる時、彼は非難されるのを覚悟している。だが、姉は公園で命を失い、彼は遅刻により生きのびる。こうして彼は姉を失った悲しみだけでなく、清算できない罪悪感も背負ってしまうのだ。『アマンダと僕』が語るのは、姪を迎えに行くのさえ遅刻してしまう男が、喪失感と罪悪感のなか、彼女を一人で育てることを決意するまでの物語だ。ダヴィッドは父を亡くし、母とも二十年会っていない。そんな彼が母を亡くした姪を養女にすると、ついに決意する。その決意の後、彼はロンドンの母親に会いに行く。子供を育てることは、自分自身が成長することでもあるかのように。

今月は他に、『オーファンズ・ブルース』『さよならくちびる』『ドント・ウォーリー』などが面白かった。また未公開だが、アントナン・ペレジャトコの『ジャングルの掟』も素晴らしかった。(いとう・ようじ=中央大学教授・フランス文学)
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