美術の国の自由市民 矢代幸雄とバーナード・ベレンソンの往復書簡 書評|山梨 絵美子(玉川大学出版部)|書評専門紙「週刊読書人ウェブ」
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読書人紙面掲載 書評
更新日:2019年6月15日 / 新聞掲載日:2019年6月14日(第3293号)

美術の国の自由市民 矢代幸雄とバーナード・ベレンソンの往復書簡 書評
国籍も戦争も病もこえた魂の交流
同時に美術史学史上の重要な問題が垣間見える

美術の国の自由市民 矢代幸雄とバーナード・ベレンソンの往復書簡
著 者:山梨 絵美子
編集者:越川 倫明
出版社:玉川大学出版部
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 美術史学の泰斗矢代幸雄(1890―1975)と彼の師バーナード・ベレンソン(1865―1959)が、大戦をはさむ36年もの間、手紙のやりとりを続けていたことを初めて知った。本書は現存する1923~59年の書簡114通の翻訳復刻と、詳細な注解、越川倫明、山梨絵美子、ジョナサン・ネルソン各氏の秀逸な論文からなる。戦争、病気と数々の困難の中で、「美術の国の自由市民」(1940年3月書簡)として研究と志を共にした二人の交流は、胸を打つものがある。同時に美術史学史上の重要な問題が、いくつもここから垣間見える。

ベレンソンは、モレッリと並ぶイタリア・ルネッサンス美術の鑑定の権威、美術史の大家である。鑑定料を資金に膨大な文献・写真資料を収集し、ヴィラ・イ・タッティに私設の美術館図書館・研究所をつくった。多くの研究者がここを訪れ、さらに彼を師と仰いだのが、矢代でありケネス・クラークだった。矢代が初めて訪れたのは1921年31才、この時ベレンソンは56才だったから、二人の交流は矢代は壮年から老年、ベレンソンは老年から晩年期だったことになる。矢代がイ・タッティでボッティチェリ研究に没頭した日々は、彼が書簡で繰り返し言うように、終生理想の環境として記憶された。そして矢代が帰国後に設立した帝国美術院付属美術研究所(1930年、現東京文化財研究所)は、まさにこのイ・タッティをモデルにした東洋美術版だったようだ。文化財研究所はかつての私の職場でもあるが、あのシステマティックな文献・写真資料の収集と刊行、その構想の由来と目的を、初めて正確に理解した気がした。矢代が東京美術学校の講義で使ったスライドのガラス原版も、今私の研究室にある。矢代の存在が、急に身近でリアルな実像として立ち現われた気がする。

矢代はベレンソンへの手紙で、「先生に教わった方法で東洋美術研究に励む」ことをくり返し述べており、それはベレンソンの強い希望でもあったらしい。実際矢代は美術研究所設立後、日本東洋美術史の研究にも重点を置いていく。現在の我々の認識では、矢代の美術史研究は西洋美術史が主で、東洋美術史が従だが、むしろ東西美術の比較交流と水平の視点こそが、彼の特徴と考えるべきなのかもしれない。ベレンソンが「美術の国の自由市民」と言ったのも、区別より美術の普遍性・一体性への強い希求からだった。同時にそこには戦争という背景も行間に見るべきだろう。日独伊三国同盟(1940年)の状況下で、イタリア在住のベレンソンはユダヤ系のアメリカ人、矢代は日米開戦の勅令の誤読で、美術研究所長を退任している。互いに思いを馳せながら、手紙にはそれを書けない時局だったろう。

戦後の1957年、矢代は大病で生死をさまよった。その時92才のベレンソンが書き送った「生きなさい」という強い語調の手紙を、回復後の矢代は内ポケットに入れて持ち歩いたという。国籍も戦争も病もこえた魂の交流を、ここに見ることができる。
この記事の中でご紹介した本
美術の国の自由市民 矢代幸雄とバーナード・ベレンソンの往復書簡/玉川大学出版部
美術の国の自由市民 矢代幸雄とバーナード・ベレンソンの往復書簡
著 者:山梨 絵美子
編集者:越川 倫明
出版社:玉川大学出版部
以下のオンライン書店でご購入できます
「美術の国の自由市民 矢代幸雄とバーナード・ベレンソンの往復書簡」出版社のホームページはこちら
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