薄田泣菫読本 書評|(翰林書房 )|書評専門紙「週刊読書人ウェブ」
マイページで記事のブックマーク!
ログイン
マイページ登録

トップページ

特集

書評

連載

コラム

ニュース

読書人とは マイページ

読書人紙面掲載 書評
更新日:2019年6月15日 / 新聞掲載日:2019年6月14日(第3293号)

薄田泣菫読本 書評
薄田泣菫という文学者を広く認知させようとする倉敷市の貴重な取り組み

薄田泣菫読本
編 集:倉敷市・薄田泣菫文庫調査研究プロジェクトチーム
出版社:翰林書房
このエントリーをはてなブックマークに追加
薄田泣菫読本()翰林書房
薄田泣菫読本

翰林書房
  • オンライン書店で買う
 「詩人としての泣菫は、明治文学史の一角に不動の地位を確保しており、教科書や参考書に必ずといってよいほど登場する。だが、それは同時に、泣菫の詩が、難解な古典的作品として敬遠される宿命を、あらかじめ背負っているかのような小さな扱いをうけるのがつねで、宝のもちぐされもいいところであった」(谷沢永一・山野博史編『泣菫随筆』冨山房百科文庫の山野による解題)

この一文は、戦後の文学史における薄田泣菫(一八七七~一九四五)の位置を簡潔に云いあてている。

泣菫は一八九九年(明治三十二)に第一詩集『暮笛集』で新進気鋭の新人として注目され、第三詩集の『二十五絃』巻頭の「公孫樹下にたちて」は当時の文学青年に愛誦された。

しかし、現在では泣菫の詩は広く読まれているとは云いがたい。詩人としてよりは、むしろコラムの元祖ともいえる『茶話』の著者として知られている。私自身も冨山房百科文庫の『完本 茶話』全三巻で泣菫を知り、鋭い人間観察眼とユーモアに惹かれた。

泣菫は現在の岡山県倉敷市連島に生まれ、その生家は保存・公開されている。二〇〇四年以降、遺族から寄贈された資料約千七百点は「薄田泣菫文庫」としてプロジェクトチームによって整理されている。その中から『倉敷市蔵 薄田泣菫宛書簡集』三冊も刊行された。本書はこの文庫の資料を活用しつつ、泣菫の人間像と作品を伝えようとする「読本」だ。

第一部「泣菫の生涯」は、海と山とともに育った少年時代から、パーキンソン病に苦しみ、終戦直後に亡くなるまでをコンパクトにまとめている。京都で寄寓した竹内家の次男が、シャーロック・ホームズの翻訳で知られる延原謙だったこと、東京の漢学塾で同郷の洋画家である鹿子木孟郎と満谷国四郎と出会うこと(のちに泣菫の長女と満谷の養子が結婚する)など、人の縁の妙を感じる。

詩人として活躍するかたわら、『暮笛集』の発行元である大阪の金尾文淵堂の雑誌『小天地』の編集主任となる。金尾文淵堂は大阪毎日新聞や大阪朝日新聞の連載作品を積極的に単行本化した(石田あゆう「大阪出版文化と金尾文淵堂」〈吉川登編『近代大阪の出版』創元社〉)。

泣菫が一九一二(大正元)年に大阪毎日新聞社に入社したのも、同紙の文芸欄担当者で、自身が連載した小説を金尾文淵堂から刊行した菊池幽芳の紹介だとされる。泣菫は文芸記者として多くの作家に原稿を依頼し、芥川龍之介に大阪毎日と専属契約を結ばせた。泣菫のコラム『茶話』が掲載されたのも同紙である。

第二部では、詩や随筆(「芥川龍之介の悪戯」は『茶話』最良の一篇だ)を選りすぐり、第三部には、同時代の作家・詩人が泣菫を語った文章や年譜を掲載。また、倉敷や大阪、西宮など泣菫が住んだ土地を紹介している。

生家の公開や資料の整理、そして本書の刊行と、薄田泣菫という文学者を広く認知させようという、倉敷市の取り組みは貴重だ。「宝のもちぐされ」にはならないはずだ。
この記事の中でご紹介した本
薄田泣菫読本/翰林書房
薄田泣菫読本
編 集:倉敷市・薄田泣菫文庫調査研究プロジェクトチーム
出版社:翰林書房
以下のオンライン書店でご購入できます
「薄田泣菫読本」出版社のホームページはこちら
このエントリーをはてなブックマークに追加
南陀楼 綾繁 氏の関連記事
読書人紙面掲載 書評のその他の記事
読書人紙面掲載 書評をもっと見る >
文学 > 日本文学関連記事
日本文学の関連記事をもっと見る >