江藤 淳 評論 若い批評家の信条  ――文学非力説の末路 したり顔の俗論に反対する 『週刊読書人』1959(昭和34)年3月16日号 1面掲載|書評専門紙「週刊読書人ウェブ」
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更新日:2019年6月16日 / 新聞掲載日:-0001年11月30日(第266号)

江藤 淳 評論
若い批評家の信条  ――文学非力説の末路 したり顔の俗論に反対する
『週刊読書人』1959(昭和34)年3月16日号 1面掲載

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江藤 淳氏
本紙6月7日号にて特集した平山周吉✕先崎彰容対談「歿後二〇年江藤淳」に関連して60年前の本紙に掲載された若き日の江藤淳の評論を紹介する。
本稿では江藤淳が批評の本質を綴る。批評家としての自身の立脚点を顧みながら、いかにして批評が批評足り得るのか、当時跋扈した俗論の在りに厳しい批判を加えながらを論じた。(2019年編集部)
第1回
“文学”をつくり出すもの


『司馬遷』の著者、武田泰淳氏は、「窮して志をのべる」ところに文学の意味を見出した。「憂愁幽思、心憂え物思う、ただその為であった。歴史的事実としてみれば、まことにはかない事実である。一つの心理、一つの影にすぎない。しかし司馬遷は、ここに『文学』をみとめた」と武田氏はいう。

だが、憂愁幽思すること、「窮して天を呼び、苦しんで志をのべること」、なにも文学者の専売特許ではなく、作家、詩人の専有でもない。真に「窮して天を呼ぶもの」がたまたま文学をつくりだす。心憂え物思い、「憤りを発して」ほとんど死のうとするのはもともと人間の本性からでた行為である。なぜ窮するか。それは彼が実行を断念しなければならぬ場所にいるからである。なにゆえに志をのべるか。しかもなお黙して首を垂れるのをいさぎよしとしないからである。文学は挫折から開始された行動によってなる、と私は書いたことがある。もとよりこれは別のことではない。なぜそうするか。それ以外に、人間の精神の自由を立証するすべを知らないからである。

だから、文学は風流韻事でもなければ、政治、社会、などのもろもろの価値と無関係な別天地でもない。人間の本性に発し、他の価値から切りはなしがたい行為である。ここに文学者、大工、農夫の区別はあるまい。特別の約束事、作法、形式などは、知的俗物ならいざ知らず、文学者にとって本質的な価値ではなかろう。「苦しんで志をのべる」とき、作法はおのずからなり、約定はおのずから超えられる。なぜなら、それはひとりの人間が自分の存在を証拠立てようとする肉声の叫びだから。
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