中平卓馬をめぐる 50年目の日記(11)|書評専門紙「週刊読書人ウェブ」
マイページで記事のブックマーク!
ログイン
マイページ登録

トップページ

特集

書評

連載

コラム

ニュース

読書人とは マイページ

中平卓馬をめぐる 50年目の日記
更新日:2019年6月25日 / 新聞掲載日:2019年6月21日(第3294号)

中平卓馬をめぐる 50年目の日記(11)

このエントリーをはてなブックマークに追加
「陳腐」な授業と「総合雑誌」のグラビアを見ることから私の写真体験は始まった。なにしろ「カメラ雑誌」を見ていたことも、カメラを趣味にしていたこともなかったのだから。

というのも、私が小学生の頃は二眼レフカメラが愛用される空前のカメラブームの時代だった。父が新型のカメラを手にして嬉しそうにいじっていたのを思いだす。それなのに興味を引かれることはなかったのが不思議なくらいだ。

二眼レフカメラのフィルムはロクロク(6×6)判といって、一コマのサイズが6㎝×6㎝の正方形で家庭のアルバムに貼るサイズにはちょうどいい大きさだった。だからネガを印画紙に密着させて露光するベタ焼きをつくってもらい、気に入ったものをハサミで切り抜いてアルバムに貼ることが多かった。そういう使い方をするのに都合のいいカメラとして二眼レフカメラが普及した。私は父の二眼レフカメラのシャッターを代わって押したことが一度か二度あったかどうかだから、これをカメラ体験とは言えないだろう。

中平さんからも「体験」にまつわる話は聞かなかった。普通に使ってはいたのだろうが、じっさいにカメラを手にしても、レンズ鏡胴部分に記されたいろんなマークやフラッシュ接点のことなどへの知識は皆無だった。

カメラ体験も無いに等しい私の写真体験は「見る」ことから始まって、それも「現代の眼」の写真が初の体験になったのだが、そのグラビアを企画担当したのが中平さんで、という巡り合わせになったわけだ。その中平さんも写真が意識の領域に入ってきたのは東松照明との出会いからだったようだから、写真については「新参者」だった。

東松照明といえば、一九六一年公開の大島渚監督映画「飼育」の脚本を松本俊夫、石堂淑朗とともに書き、同時に東松が撮ったそれまでにない「写真」らしい写真の映画ポスターが話題になって、ジャンルを超えて動き始めた現代芸術の趨勢とともにある写真家として知られるようになっていたようだから、そんな雰囲気の中で中平さんは東松を知ることになったのだろう。あるいはまた、東松はキャパやブレッソンたちがつくった写真家集団「マグナム」の日本版を目指したともいわれる写真家グループ「VIVO」の創設(1959年)メンバーの一人だった。そこで一緒だった奈良原一高が同時期、中平さんの姉をモデルにして「あるハイティーンの肖像」という作品をカメラ雑誌に発表している。だから中平さんは東松を含めた新しい写真人たちの動向を、近くに見られる環境にいたのかも知れない。
「現代の眼」は中平さんの入社翌年の二月号に、「本号より定価据置のままグラビア頁を新設します」と、「社告」を載せた。「映画評論」の頁も新設した。

映画欄で最初に取り上げたのが「長距離ランナーの孤独」。石崎浩一郎氏の批評だった。その次が佐藤重臣による「去年マリエンバードで」。そして篠田正浩の「乾いた花」を中垣裕史が、「砂の女」を堂本正樹が批評して、オーソン・ウェルズ監督の「審判」は渡辺淳だった。この頁は5回しか続かなかったが、私はそれらが中平さんの関心から選び抜かれたものだろうと想像し、その理由を知りたくて何度も見直したりもした。そしてぼんやりと、写真であれ映画であれ、そういう表現が必要なんだと思うようになっていった。(やなぎもと・なおみ=写真家・東京造形大学名誉教授)  (次号へつづく)
このエントリーをはてなブックマークに追加
柳本 尚規 氏の関連記事
中平卓馬をめぐる 50年目の日記のその他の記事
中平卓馬をめぐる 50年目の日記をもっと見る >
人生・生活 > エッセイ関連記事
エッセイの関連記事をもっと見る >