「東大反百年闘争」の当事者・森田暁氏に聞く④ もうひとつの〝東大闘争〟――全共闘の〝戦後〟に生まれた「全闘連」―― 外山恒一連続インタビューシリーズ「日本学生運動史」|書評専門紙「週刊読書人ウェブ」
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もうひとつの〝東大闘争〟
更新日:2019年6月21日 / 新聞掲載日:2019年6月21日(第3294号)

「東大反百年闘争」の当事者・森田暁氏に聞く④
もうひとつの〝東大闘争〟――全共闘の〝戦後〟に生まれた「全闘連」――
外山恒一連続インタビューシリーズ「日本学生運動史」

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森田  
 さきほどから、いろんな党派の悪口ばっかり云ってますけど、ぼくにとっては、早稲田で川口大三郎君が殺されたという事件〔註1〕はやっぱり大きかったですよ。川口君はぼくと同い年だったし、しかも駒場でぼくらが置かれてるのと同じような境遇で、あちこちの党派をウロウロしてたら殺されちゃったわけでしょ。自分が殺されたようなもんじゃないですか。駒場もやっぱり怖かったですからね。ベ平連の仲間でも、Ⅰ君という、もう引退したけど某大新聞の国際記者になった奴がいるんです。彼も中核派で、自宅で革マル派に襲撃されて、〝戦果〟として『解放』(革マル派の機関紙)に載ったりして、その直後ぐらいに駒場の授業に行ったら、I君のボスにあたる、駒場のベ平連のキャップだった奴で、こいつも卒業後は同じ新聞社に行くんだけど……ダメだよなあ、東大って、みんな大新聞に行っちゃうんだもん。

とにかくそいつのところにも革マルが何人か来て、恫喝してるっていう、そんな状況が蔓延してましたから、それはイヤでしたよ。しかも毎日のようにぼくは早稲田に行ってたから、これはそのうち目をつけられて、ヤバイなと思いました。

しかしあれはすごかったですよ、第3次早大闘争。ほんとに大衆的な、〝群衆〟が登場してましたからね。〝(革マル派の主導によるものではない)学生大会をやろう〟って方向でやってましたから、一般学生もたくさん集まってるんです。でも当局は完全に革マルの味方のようでしたから、そういう一般学生をみんな追い払っちゃうんですよ〔註2〕。文学部の学生大会をやろうとしてたんだけど、しょうがないから教育学部の教室に行って学生大会をやるっていう、そんな状況をぼくもずっと見てました。

……もう一回いったん時系列で整理すると、七二年の夏に「8・25共闘会議」というのができて……いや、その前に一番重要なことを云うのを忘れてた。京大の「C戦線」って分かりますか?
外山  
 それは知りません。
森田  
 「教養学部戦線」ですね。それも七一、七二年頃です。ぼくらも「C闘」っていう、「教養学部闘争委員会」というのをやってた時期で、京大もやっぱり六八、六九年には「教養学部闘争委員会」っていう名前だったらしいけど、七〇年に入って全共闘の〝戦後〟になると、同じように「C戦線」という名前に変わって再編されてたわけですよ。やたら戦闘的な連中で、何の課題だったか、板付基地〔註3〕とかに突っ込むんです。それを聞いて、京大コンプレックスがすごく強い東大生たちですから、「あんなふうにやりたい!」という感じがあるわけですね。それでぼくら東大ノンセクトも「教養学部闘争委員会」って称してたんだけど、そのうちベ平連も解散することになったし、改組しようってことで、七二年の新入生が入ってくるところで、山本義隆さんたちが東大闘争初期にやってた「全学闘争連合」っていう栄光の名前をそのまま踏襲することになりました。本当は、「駒場共闘」という一九六九年のノンセクトの組織の名称を使いたかったんですが、革マル派が先に使いはじめたんです。そのために「全闘連」としました。で、全闘連には一番優秀な、責任ある立場の活動家として、S・S君というのがいたんです。彼がマル青同に行っちゃう。それで五人ぐらい、ついて行っちゃうんですよ。オモライ君とかです。……まあ、そんなふうにだんだん全闘連を辞めていくんです。

こないだ同期の連中に会ったら、「S・Sはまだ生きてる」とか、「オモライも生きてる」って話で、ホッとしましたけどね。あんな悪魔みたいな組織で、よく生き延びられたなあ、と。そんな感じで内部的崩壊があって、ぼくみたいに中核派に逃げちゃう奴もいました。中核派からも駒場にはオルグは来てたんです。それにはパターンがあって……あんまり知られてないようですが、首都圏では法政だけじゃなくて、実は慶應にも中核派のかなり大きな細胞があったんですよ。だから慶應に入った学生が、東大に入り直す形で駒場に移ってきたりする。やっぱり中核派も東大に足場は欲しいから、そんなふうにちょこちょこ入れてくるんですね。パンダという奴がいて、彼なんかは七本バリの中で公然と「オレは中核派だ」って云いながら、うまいこと革マルの目を盗んで生き延びてました。もうひとり、ミニ・パンダという奴もいた。彼も自分は中核だと云うんだけど、そんなの、ほんとか嘘か分かんないでしょ。〝吹いてる〟だけかもしれないから、本当かどうか確かめるには〝本物〟のところに行くのが一番いいと思って、芝公園かどこかの中核派の集会に行って、「東大生なんですが、川口君が殺されて悔しい」みたいなことを云ったら、いきなり池袋のアジトに連れて行かれて……。ぼくは家が近かったから〝通い〟でしたけど、それでぼくも中核派に出入りするようになるわけです。

当時は〝ブクロ村〟って云われてたぐらいで、中核派の活動家たちはほとんどみんな、池袋に固まって住んでたんですよね。そこに通っていろんな話をするうちに分かったんだけれど、〝学生活動家〟って大学の中で生まれるもんだと思ってたら、実は違うみたいなんです。そうではないパターンがあるらしい。ぼくがブクロ村で会った中にもひとり、七〇年入学の東大生がいて、だけど大学の中では一度も見かけたことがないんですよ。聞いてみると彼は某県人会の学生寮で先輩にオルグられて、東大には入ったんだけど、そのまま学校には全然来ずに、中核派の活動家になっちゃうっていう、そんなパターンがあるようです。もちろん最初はブクロ村でごく少人数の人と動いてたんだけど、そのうち「駒場にも実は何人かいるんで」って、結局はパンダたちとも一緒にフラクションをやったりもしました。ミニ・パンダもいて、ニセモノじゃなかったんだと後で分かった。ほんとに、分かんないんですよ。学生運動の世界には、ホラ吹きなんかいくらでもいますからね。まあ、それが七三年ぐらいかな。その頃になるともう、内ゲバは殺し合いの状況になってますから……。 〈次号につづく〉

   ***
〔註1〕一九七二年十一月、〝中核派のスパイ〟と疑われて、革マル派によって自治会室に連れ込まれて凄惨なリンチを受けた末に殺害された。それまでにも大学構内で数件起きていた、被害者が学外から連行されて殺されたなどのケースと違い、学生が自分の通う大学の自治会によって殺されるという特異な事件で、直後から「特に」翌七三年五月頃にかけて、〝革マル派を追放せよ!〟という、諸党派・ノンセクトの連合軍と革マル派との熾烈な抗争が〝第3次早大闘争〟として展開したが、結局は革マル派の勝利に終わった。
〔註2〕さまざまな政治勢力が入り乱れて学内が無秩序になってしまうより、特定のひとつの勢力に〝治安維持〟を代行してもらっていたほうが得策だという判断があったと推測される。
〔註3〕現在の福岡空港。七一年まで米軍基地でもあった。
【編集部より】本稿は、森田暁氏の記憶に基づいたものです。当時の情報等をご存じの方は、編集部までご一報下さい。info@dokushojin.co.jp
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