山海記 書評|佐伯一麦 (講談社)|書評専門紙「週刊読書人ウェブ」
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読書人紙面掲載 書評
更新日:2019年6月22日 / 新聞掲載日:2019年6月21日(第3294号)

山海記 書評
大宇宙から小宇宙へ
土への旅、「私」という存在への旅

山海記
著 者:佐伯一麦 
出版社:講談社
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山海記(佐伯一麦 )講談社
山海記
佐伯一麦 
講談社
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本書のタイトル『山海記』は「せんがいき」と読む。その元になっているのは、冒頭近くで言及される中国の地理書『山海経』(せんがいきょう)である。このことにもあらわれているように、この作品にはさまざまな土地にまつわる古来からの言い伝えがふんだんに盛りこまれ、その場を訪れる主人公の感覚に、地理的空間的な奥行きを与えている。

主人公の「彼」は、日本各地の水害の跡をめぐる旅をつづけている。かつて多数の死者を出した河川や渓谷の、その静かな面持ちを前に過去や伝承に想像をめぐらすことが、一種の鎮魂の儀式となる。佐伯一麦の多くの作品と同じく本書も私小説として読むのがふさわしいだろう。実際、個人的なエピソードも豊富である。ただ、タイトルが示すように、土地の声に耳を澄ますという姿勢も大きな読み所になっている。

こうした設定の背景にあるのは、彼自身が仙台の地で経験した二〇一一年の東日本大震災である。未曾有の水害として記憶されるこの惨事をどう理解するか、それが大きな問いとして主人公の前に今でも立ちはだかっている。被災の中心が東北の地だったということも「彼」にとっては意味を持った。

『山海経』が言及されるのも、その〝辺境〟の扱いゆえだった。ある圏域からの外を「その他」としてまとめてしまう中華思想は、東北以北を「蝦夷」なる他者としてひとくくりにした『日本書記』の世界観のお手本ともなっていた。

辺境人としての東北人。しかし、おもしろいのはそうした土地をめぐる観念が、「彼」の中でより原初的な土の感触に吸収されることである。震災後に訪れた阿武隈川の河口近くで、葦原を見渡していた「彼」はこんな体験をする。

川岸の船着場の石段に立って、川の真ん中の砂州となったところでカモメらしい群れが羽根を休めているのを遠目に見遣ってから、砂地だとばかり思っていたところに足を乗せたとたん、ズブズブとはまりかけた。念のために、震災直後に知人の住む沿岸部を訪れたときにも役立ったトレッキング用の編み上げ靴を履いてきたのでよかったが、表面の砂の下は、津波によって運ばれてきたヘドロを含んだ泥地だった。

この「ズブズブとはまりかけた」という感覚こそが、「彼」にとっての土地のリアルさを体現している。

古代の世界観ではしばしば天体と、人間の身体や心理との間に照応関係がみられてきた。『山海記』の主人公の行脚も、そんな大宇宙と小宇宙の響き合いに導かれるように、泥臭い身体意識を前景化させる。

中盤から後半にかけ、自殺した友人の記憶は、自身の病の体験の想起にもつながり、死の意識も強くなるが、おもしろいのは「彼」をこの世界にしっかりつなぎとめているのが、非常に泥臭い身体感覚だということである。旅先で酒を飲んだあと、急に強烈な尿意におそわれホテルの部屋にたどりつく前に粗相をしてしまったという逸話なども、後の大腸の大きな病気の話ともつながり、苦痛に満ちた便秘と脱糞の場面を呼びこむ。

硬い土に植えてある樹木の幹を引っ張り上げて大量の土がへばりついた根っこが出てくるように、最初は手首大のものが、その奥から拳大の塊が出てきて、彼は大きく息を吐いた。

さまざまな身体の障害をかかえこんだ彼が、まるで土地の声を聞くようにして、身体の叫びを聞くさまは壮絶というほかない。『山海記』に描かれる土への旅は、同時に「私」という存在への旅とも重なるのである。
この記事の中でご紹介した本
山海記/講談社
山海記
著 者:佐伯一麦 
出版社:講談社
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