澁澤龍彥、三宅艶子、羽仁進 評論 現代悪書論 ――不良出版物追放運動に寄せて 『週刊読書人』1963(昭和38)年11月4日号 1―2面掲載|書評専門紙「週刊読書人ウェブ」
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更新日:2019年6月23日 / 新聞掲載日:-0001年11月30日(第499号)

澁澤龍彥、三宅艶子、羽仁進 評論
現代悪書論 ――不良出版物追放運動に寄せて
『週刊読書人』1963(昭和38)年11月4日号 1―2面掲載

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1963(昭和38)年
11月4日号1面より
いわゆる“悪書追放運動”“不良出版物ボイコット”がマスコミのバックアップも手つだって、このところ日毎に広まっている。一般的に“悪書追放”に反対する者はいないにしても、一足進めて“悪書”とはなにかと問い直してみれば、そこには、抽象的なスローガンでおおいつくすことのできないさまざまな解釈と、出版人が自分で自分の首をしめることになりかねない危険が口を開けているのがわかる。歴史が示すように、“悪書”はつねに権力によって“悪書”と認定され、権力によって“追放”されてきた。

今日の一見自主的な運動も、この論理のなかで、いつか言論と思想の自由への敵対物に転化しないともかぎらない。“サレムの魔女”の伝説にもあるように、作り出された“悪”はすべてを“悪”一色にぬりつぶそうという暗い情熱をもつから。読書週間を機に、この“自主的”な運動がその反対物に転化しないことを祈りながら、サド裁判で“悪書論争”の立役者であった渋沢竜彦 氏をはじめ、三宅艶子、羽仁進、の両氏の意見とこの問題をめぐる小売書店の動きを特集した。(編集部)


※本文中の漢字表記は当時の記事に準拠しています
第1回
危険に堪える精神を ――「悪」の名にすら値せぬ不良週刊誌[前]

澁澤 龍彦氏

【狂信的な理想主義―“焚書”】
 
一四九七年の謝肉祭の日、サヴォナロオラはフィレンツェの広場で、異教の書物をことごとく焼いた。一九三三年五月十日、ヒトラーはベルリンのオペラ座前広場で、いわゆる堕落芸術やユダヤ思想の本をことごとく焼いた。悪書追放とは、こんなものであろう。彼らのやり方は、なかなかすっきりしている。いずれにせよ、それが一つのファナティックな理想主義であることに変りがないからだ。一つの世界観をもってする政治は、当然、このような帰結をみちびき出すにちがいない。

しかし、デモクラシイという政治理念には、どこを押しても叩いても、とうてい、焚書などという古風な儀式に人民を駆り立てる根拠はなかったはずだ。それなのに、現在、この日本で、一部のひとたちが、婦人会や青年団の尻馬にのって、悪書追放のスローガンをかかげ、秦の始皇帝みたいな気持になっているらしいから、聞いて呆れる。事実、九州の門司では、婦人会と青年団が音頭とりになって、「悪い本」千五百冊を集め、タイマツで焼くという、気違いじみた儀式まで行ったそうである。

【強靭な胃の腑と温室文化と】
 
いったい、悪書と良書の判定は誰がこれを行うのか、といった技術的な問題はさておき、――わたしは、そもそも文化というものは、悪書も良書も強靭な胃の腑に呑みこんで、たくましく育って行くべきものだと考えている。温室のなかの脆弱な文化は、文化の名に値しないと考えている。クロムウェル次代の清教主義、ヴィクトリア朝時代の猫かぶり主義は、文化にとって息苦しい、有害無益な風土であった。それは簡単な理屈で、どの家にも台所や便所があるようなものであり、便所のない文化は、いきおい恐慌状態を呈するにきまっているからである。

毒にも薬にもならない不良週刊誌やエログロ雑誌を追放しても、大したことはあるまい、ことごとしく言論表現の自由の弾圧として騒ぐには当るまい、という意見もある。わたしとしても、思想の自由などという大義名分を持ち出す気はさらさらない。しかし、わたしに言わせれば、不良週刊誌やエロ雑誌は、前に述べた「便所的な」文化を代表するものであり、文化は高度に発達すればするほどその一方に、百花繚乱たる「便所的な」文化を生むのである。高遠な哲学と低俗な人間学的興味とは、一対をなしていて、一方を殺せば、他方も死ぬのである。

【大衆社会の生み出す排泄物】
 
ところで、ヒトラーもサヴォナロオラも、ある一つの文化そのものに攻撃をしかけてきた。サヴォナロオラにとっての「悪書」とは、ギリシア・ラテンの快楽主義的な思想のすべてであり、ヒトラーにとっての「悪書」とは、フロイトやマルクスの懐疑主義的・近代主義的思想のすべてであった。かように、彼らが意図したのは、一つの文化全体の破壊であった。それはそれで筋が通っていると申さねばなるまい。しかし、近代の人間主義的な文化と、その発展の方向を一応是認しておいて、その周辺に散らばる排泄物みたいな断片のみを掃除しようというのは、不合理であり、かつ無意味であろう。人間主義的な近代文化そのものが生んだ、もっと危険なグロテスクな産物は、このほかにまだまだ沢山あるからであり、ヒューマニズムの排泄物みたいな週刊誌の思想なんぞは、どう考えても衛生無害としか思えないからである。

なるほど、われながら、うまい言葉を思いついたものだ。エロ雑誌や週刊誌は、ヒューマニスティックな大衆社会の排泄物なのだ。もしこの排泄物を見るのがいやなら、それらを生み出す母胎であるヒューマニズムや大衆社会そのものを断罪し、追放に処する以外に、手はあるまい。

ちょっと話しはちがうが、ついでに思い出したから書いておきたいことがある。御存知ない方も多いかと思われるが、神奈川県の小学校に「ネ・サ・ヨ運動」というのがある。
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