澁澤龍彥、三宅艶子、羽仁進 評論 現代悪書論 ――不良出版物追放運動に寄せて 『週刊読書人』1963(昭和38)年11月4日号 1―2面掲載|書評専門紙「週刊読書人ウェブ」
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更新日:2019年6月23日 / 新聞掲載日:-0001年11月30日(第499号)

澁澤龍彥、三宅艶子、羽仁進 評論
現代悪書論 ――不良出版物追放運動に寄せて
『週刊読書人』1963(昭和38)年11月4日号 1―2面掲載

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第2回
危険に堪える精神を ――「悪」の名にすら値せぬ不良週刊誌[後]

【“悪い言葉”とネ・サ・ヨ運動】
 
「映画にネ、行ったらサ、先生にヨ、会っちゃってサ……」といったような「悪い言葉」を、矯正しようという運動である。友達同士が検察官みたいに目を光らせて、「悪い言葉」を使った相手を教師に報告し、教師は彼に注意を与える。大きな紙人形をつくって、これに「悪い言葉」を書きつらね、「もう絶対にこんな言葉は使いません」と一同誓いながら、この人形を焼き捨てる。まあ、形代かたしろみたいなものだ。

そんなことをしても、どうしても言葉使いの改まらない「問題児」がいるのだそうである。そして、そういう子供は、教師たちの意見によれば、要するに「家庭の環境が悪い」のだそうである。

わたしは、新聞の地方版で、この馬鹿馬鹿しい「ネ・サ・ヨ運動」の記事を読まされるたびに、むらむらと不快な気分がこみあげてきて、怒り心頭に発するのをおぼえる。

ぜんたい、「悪い言葉」とは何だ、「問題児」とは何だ! 気違い沙汰も休み休みにしろ! 魚屋の子供は魚屋の子供らしく、乱暴な威勢のいいオヤジの言葉を真似して使うだろうし、ブルジョアの「ざあます」夫人の子供は、ブルジョアの子供らしく、虚栄心の強いおフクロの言葉を真似て、変にこましゃくれた口のきき方をするだろうサ。この場合、魚屋のオヤジの言葉は「悪い言葉」で、ブルジョアの奥様の言葉は「良い言葉」だとでも言うのだろうかネ。冗談じゃないヨ。笑わせちゃいけねえヤ。どんな言葉だって、血の通った生活人の言葉である以上、「悪い言葉」などというものは存在しないのだ。


【文化は温室の中では育たぬ】
 
同様に「悪書」と「良書」の区別も、本質的には存在しない。存在するという幻想をいだいているのは、道徳家ぶった気違いだけである。彼らは、自分たちの思いあがった道徳家意識が、どれだけ人間を侮辱しているかということに少しも気がついていない。

当り前な(平均的に当り前な)日本語を使っている子供をつかまえて、「家庭の環境が悪い」など、よくも言えたものである。それは、健康な生活人に対する由々しき侮辱である。

神奈川県の小学校の先生も、「悪書追放」を叫ぶ婦人会や青年団の連中も、その意識構造はそっくり同じで、要するに、恥知らずな、阿呆な、ヒステリックな、偽善者どもにすぎないのである。新興宗教や共産党にも、こんな連中をときどき見かけることがある。彼らは社会の害虫だから、駆除しなければいけない。お上品な選良意識は、たたきこわさなければいけない。

繰り返していうが、文化は温室のなかでは育たない。サナトリウムのなかでは育たない。危険を抑圧し隠蔽しようと躍起になるよりも、危険を支配しようと努力する方が、人間にとってはるかに正しい行き方である。青少年の精神をひよわ、、、にしてはいけない。むしろ、彼らの精神を危険に堪え得るような、免疫性にこそすべきである。

悪を絶滅しようなどと考えるのは、増上慢の幻想である。いくら火をつけて焼いたって、ほろびるものは印刷された紙にすぎない。時代錯誤の焚書など、道徳家ぶった偽善者のマスターベーションのように、きたならしい。世界中をサナトリウムのように殺菌してしまうことなど、不可能だということを知るがいい。本のなかばかりでなく、悪はどこにでも跳梁している。

いや、エロ雑誌や不良週刊誌なんぞ、悪の名にすら値しないだろう。――これがわたしの言いたいことのすべてである。(しぶさわ・たつひこ氏=フランス文学者)
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