澁澤龍彥、三宅艶子、羽仁進 評論 現代悪書論 ――不良出版物追放運動に寄せて 『週刊読書人』1963(昭和38)年11月4日号 1―2面掲載|書評専門紙「週刊読書人ウェブ」
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更新日:2019年6月23日 / 新聞掲載日:-0001年11月30日(第499号)

澁澤龍彥、三宅艶子、羽仁進 評論
現代悪書論 ――不良出版物追放運動に寄せて
『週刊読書人』1963(昭和38)年11月4日号 1―2面掲載

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第3回
視点の決め方で種々 ――すべてが“自転車生活”の反映で

三宅 艶子氏

「悪書」とはどういう本のことだろう。悪書、悪い本、口の中で言って見る。「良書推進」「悪書追放」という言葉があるが、良書というとなんだか押しつけがましくて、いやな本のような気がする、悪書という方がいい本のように思われるのは、私の天邪鬼であろうか。

たしかに、さまざまな「悪い本」が「良い本」と一緒に本屋の店頭に並んでいる。しかしどれを悪い本というのかは、その決め方の視点で違って来る。

戦前、戦中の時代には検閲制度があり、「悪書」はその筋で決め、発売禁止にされたり、用紙の割当てがもらえなかったりした。戦争の末期には、軍の御用書以外はみんな「悪書」の烙印を押されたものだ。

今は一応出版の自由、言論の自由があることになっているから、当時とは違う。書籍の多くは(いい本も数々出てはいるが)人に読ませるためというよりは、次々とつくって売らなければならない一つの商品として生み出されている。その中にはまったくおかしな本、不思議な本、出鱈目な本も出来てしまう。

が、読む方も自転車操業の出版社と同じく、自転車読書とでもいう読み方をする。仮に「英語の早解り」という本が流行すれば、英語を習おうという気がない人までが、とにかく大急ぎで買って見る。そしてななめに読む。わかりもしないし、喋れるようになりもしない。本の中味が駄目なのか、読み方が悪かったのか、売り方が悪かったのか、そんなことを考える閑もなく、次に出た別の本にとりつく。という有様だ。

人々がじっくり本を読まなくなったから、じっくりなどということが必要ないように、さっと眼を通せば気が済むような本が次々に出版されている。山に登ったこともない人が書いた登山の手引だの、食べられない料理の出来てしまう料理の本を私は悪書と思うが、ひときわ読者を満足させるという意味では親切といわなくてはなるまい。

悪書として今槍玉にあがっている小さな週刊誌や実話雑誌など、たしかに良書とは認められないが、その害毒などたかが知れている。どうせいっこうにエロティックでもない内容に下品な挿絵がついているだけで、大きな「被害」を期待してもうけることは出来ない。追放などされない出版社で出している女性雑誌の中の方にかえってひどく不真面目で人を惑わすものが載っている。

またこの頃の少年少女の雑誌にもし眼を向けるなら、その悪書振りに人は驚くだろう。どぎつい言葉、ショッキングな事件、そしてあとは以下次号と次の出費をそそるだけでなんの内容もない。あるとすればかつての戦争を面白そうに吹き込んでいることだ。

たまにその種のものを読むと、これこそ悪書! と叫びたくなるが、これも考えて見れば一冊の悪書なのではなく、今の一つの風潮なのだろう。

芸術作品は、一人が悪書と思っても別の人が良書と感じるかも知れない。思想の書はその思想に反対の人からは良い本が悪書と見えるだろう。造本のがさつなものも、ときには出版元の経済事情で仕方がないかも知れない。

そう思って来れば、悪書など一つもなくなる。が、なんとまあ悪書の多いことだろうと、店頭を見渡せば、良い本を探し出すことの方が困難だ。出版界だけでなくすべてが自転車生活の今日では、悪書も良書も、ペダルの一踏みのはかないもののように思われる。(みやけ・つやこ氏=評論家)
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