アンコール 書評|ジャック・ラカン(講談社)|書評専門紙「週刊読書人ウェブ」
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読書人紙面掲載 書評
更新日:2019年6月29日 / 新聞掲載日:2019年6月28日(第3295号)

アンコール 書評
愛について、男と女について
「待望」のセミネール第二〇番の邦訳

アンコール
著 者:ジャック・ラカン
翻訳者:藤田 博史、片山 文保
出版社:講談社
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「待望の」というべき邦訳の出版である。ラカンが死の前年まで二七年間続けた講義の第二〇番目にあたるセミネール。一九七二―三年に行われたものだが、本国フランスでははやばやと一九七五年に書籍として出版されていた。セミネールの出版としては、第一一巻『精神分析の四基本概念』(一九七三年)に次ぐ二つ目で、フランス語圏ではすでに四五年も巷間に読まれてきたということになる。また英訳についてもやはりそれなりに早く、部分訳は一九八二年に、全訳は一九九九年に出版されている。おかげで、その内容の一端について仄聞する機会はこれまでにもことかかなかった。「女は存在しない」(まさか⁉)だとか、「性関係はない」(ぎくっ⁉)だとか、ラカンの解説書や研究書はもとより、世界の哲学者や批評家の書いたものでもつとに参照された、とかく目を引くあれら挑発的な命題の真意が、いったいどのあたりにあるんだろうかと、確かめる気持ちで本書を手に取る読者も少なくないのではと想像される。

愛についての、それから男と女についてのセミネールとして知られている。もう少し直裁的に言ってしまえば、セックス、身体、そしてその享楽についてのセミネール。まったくものの例えなどではなく誰しもに何らかのかたちでお馴染みであるような下の話がなされているのだが(という風に少なくとも引き受けねばならないのだけれども)、同時に、その主題を巡って紡ぎ出されるラカンの語りは、古代から現代までの哲学、言語学、数理論理学を参照して、ほとんど形而上的とも呼べそうな風をなしている。いやたしかに誰がセックス自体についてみごとに語れたためしがあったろう。とりわけこのセミネールが行われた時代に目を向けなおしてみれば、フランスでは六八年五月の大騒動の引き波のうちで、女性解放運動やゲイリブの盛り上がりが、みずからのセックスについて語ったり、また語りそこねたり、というしかたで、こんにちの私たちにも引き継がれているトラブルな時代の先端と出くわしていた。それに対してラカンは言っている、「男」は「全て」であり、「女」は「全てでない」と。男女の性差を再設定する反動を、ラカンは決め込んだのだろうか?それとも別の展望がそこに開けてきているのか?そこがもっとも読み解きがいのあるポイントになるだろうことは確かである。

とはいえそれがなかなかの大仕事になることは請け合いだ。講義のひとつでラカンは自分をバロックのアートの仲間に位置付けている。『エクリ』を贈呈された彼の〝友人〟ハイデガーが、この書きものをバロック的と形容したことが知られているが、ラカン自身、大真面目にそれを引き受けたというわけだ。バロックのアートとは、ラカンによれば「享楽を連想させる身体の露呈」である。じっさい、この『アンコール』のセミネールでは、文字も、それから言語そのものも、身体が享楽していることと切り離して論じられることはない。身体が話しながら享楽するというその猥褻さに、語られ文字にされたこのセミネールも十分に浸されていて、生真面目に意味を運ぶより先に、造語や、地口や、トポロジーの挿絵が楽しげに繁茂する。くわえて行間のほのめかしや、前提とされる教養については、これはいつもと変わらずだが、テクストの細部にいくつもの秘密の扉が仕掛けられているようなものだ。たぶんどんな読者もしばらく読んだのちに、「訳者あとがき」に何かヒントが置いてないかと後ろの頁をめくって肩透かしにあい、またその都度の訳注もほぼないので、おのずと、もし自分に不足があるならそこから自らの勉強に向かうようにというメッセージを彼方から受け取ることになろう。いずれにせよ一苦労は避けては通れなさそうだ。それならば、リーダブルな日本語であるとはいえ、長らく待った末の、誰もが手に取りやすい本だということも踏まえて、訳文全体にあともうひと手間を加えて欲しかった、と言えば、難行を成し遂げた訳者たちにさらに多くを望みすぎだろうか。いやそれも許されよう、アンコール(さらにもっと)だけに。
この記事の中でご紹介した本
アンコール/講談社
アンコール
著 者:ジャック・ラカン
翻訳者:藤田 博史、片山 文保
出版社:講談社
以下のオンライン書店でご購入できます
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