外山恒一連続インタビューシリーズ「日本学生運動史」もうひとつの〝東大闘争〟 ――全学臨時職員闘争と〝赤レンガ〟占拠―― 「東大反百年闘争」の当事者・森田暁氏に聞く⑤|書評専門紙「週刊読書人ウェブ」
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もうひとつの〝東大闘争〟
更新日:2019年7月2日 / 新聞掲載日:2019年6月28日(第3295号)

外山恒一連続インタビューシリーズ「日本学生運動史」もうひとつの〝東大闘争〟
――全学臨時職員闘争と〝赤レンガ〟占拠――
「東大反百年闘争」の当事者・森田暁氏に聞く⑤

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外山  
 話を戻しますが、〝8・25〟というのはその時点でもう崩壊してるってことですか?
森田  
 一年は続いたとは思います。でも基本的には、「8・25共闘」は結局、マル青同になると考えてもらっていいと思います。とはいえマル戦派がそのままマル青同に流れるとも思えないんだけど……。
外山  
 マル青同はML派の残党の中から出てきたと聞きます。
森田  
 うん、つまり解放委員会ですね。それから「京大L研」っていうのがあったんです。「京大レーニン研究会」ですけど、それと解放委員会が一体化したのがマル青同だということらしいですよ。そこにおそらく一本釣りでもって、元・赤色戦線のメンバー、元・怒濤派のメンバー、いろいろ引き抜いたということなんでしょう。奇妙なのは……まただいぶ話が戻りますが、七〇年の暮れにできた「十一月闘争委員会」というグループがどこを拠点として使ってたかと云えば、東大ノンセクトの代表選手みたいな、最首悟って人がいるでしょ。最首さんの研究室を使ってたんです。だけど普通、他人の研究室を使わせてもらってるんだったら、その持ち主のことは尊敬しそうじゃないですか。しかしなぜだか知らないけど、みんな最首さんのことは、あまり評価してませんでした。、〝最首みたいなのはちょっとイヤだな〟って感じなんです。一方で、山本義隆さんは〝長官〟って呼ばれてましたけど、長官のことはみんな尊敬してました。あの差が何だったのかよく分からない。ただ本郷は、かなり実体的な運動をやってたんですよ。
外山  
 あ、最首さんや山本義隆さんは、駒場ではなく本郷にいるわけですね。
森田  
 最首さんは駒場、山本さんは本郷です。で、本郷と駒場ってほとんど〝別の大学〟ですから……体質も全然違って、本郷は〝研究所〟の集合体みたいなところなんです。その研究所のひとつ(地震研)を、山本さんがたちが乗っ取っちゃうわけです。

東大闘争って普通は一月一八、一九日の安田講堂で終わったと思われてるけど、全然そんなことない。わりとグズグズと持続して、〝授業粉砕〟とかやってたのが文学部です。革マルは安田講堂の時に逃亡した〝前科〟があって、その後革マルがあまりいなくなった場所で、助手のОさんなど主にノンセクトがずっとやっていました。それが六九年いっぱいぐらいの話です。だけど七〇年の夏に、ひょんなきっかけというか、事件があるんです。東大の地震研究所ってところでIさんという人が、臨時職員だった。彼が「臨時職員では食えないから正規の職員にしてくれ」って教授のところに頼みに行ったんですね。そうしたら、空手何段かのその教授にボコボコにされた。しかもヘンな縁で、実はぼくはIさんとは、SFの「一の日会」のほうで会ったことあるんです。

それはともかく、そういう経緯で東大闘争が再燃しちゃって、もともと東大闘争って、本郷の場合は大学院生とか助手とか、そのあたりが中心でしたから、そんなことが起きたもんで、一気に地震研を乗っ取っちゃった。ついでに、すぐ隣にあった応用微生物研究所ってところも乗っ取っちゃって、それからさらに東大病院でも臨時職員の闘争があったから、「全学臨職闘争」という形でかなり盛り上がるんです。〝盛り上がる〟と云っても人数的な意味で大集会になるというわけではないんだけど、各部局でそれぞれ教授追及闘争を延々と続けてて……。

あの頃は山本さんはもう、地震研に住んでたのかな。毎日のように昼頃になると、当時はまだ廃墟だった安田講堂の前に立って、トラメガでずっとアジってました。その頃のことは、山本さんは全然書かないですね。
外山  
 なるほど。安田講堂の後すぐ山本義隆はいなくなるわけじゃないんですね。
森田  
 七四年までいるんです。地震研・応微研の占拠が七〇年のたぶん秋に始まって、七一、七二、七三年と続いて、当時は林健太郎総長かな、七四年に入ったところで……。
外山  
 東大闘争の時のエピソードで有名な人〔註1〕が、その頃はもう総長になってるのか……。
森田  
 林健太郎の意向ではなく文部省だと思うんですけど、七四年に強権発動ということになって、地震研なんて組合も完全に乗っ取ってたのに、地震研も応微研も、当局によって完全に引っくり返されちゃうんですよ。それで臨時職員の人たちは行き場を失ってしまって……七四年に〝安田講堂闘争〟があったなんて、まったく知られてませんよね?
外山  
 知らないです。
森田  
 たった四人なんですけど、まあ三島由紀夫と盾の会みたいなもんですね。しかも四人が四人とも、全員東大の職員。東大から給料を貰ってる人。Nさんっていう農学部の助手、それからもうひとりのNさん、これは応用微生物研究所の助手、あとのふたりは名前を忘れちゃったけど、これはふたりとも東大の職員でした。とにかく職員四人で安田講堂に突っ込んで占拠して、大学側も、どうせまた学生がやってるんだろうと思って機動隊を入れてみたら、全員が〝内輪〟の人間であることが分かった。これは結構ショックだったみたいです。それで大学側も妥協してきて、全共闘系の自主管理を一部認めるようになります。

それから東大にはもうひとつ、まあもちろん合法的にではないんだけど、ずーっと自主管理が続いていた場所として、〝赤レンガ〟というのがあるんです。それは聞いたことありますか?
外山  
 いえ……。
森田  
 精神科病棟ですね。つい最近、当局もさすがに五〇年も経つと当時の記憶を消したいようで、外観はそのままで、中はすっかりきれいにしちゃったみたいですが……。東大構内に入る「龍岡門」という場所があるんです。そこから入ってすぐの建物。その地下のフロアを完全に自主管理してたんですよ。ずいぶん後の、八〇年代の世代なんかでも、京大の活動家とか、東京で何かある時にはそこに泊まったりしてたみたいです。 
〈次号につづく〉
〔註1〕六八年当時の文学部長で、全共闘学生たちに八日間にわたってカンヅメにされ追及を受けながら、最後まで 要求を全部突っぱねたことで知られる。
【編集部より】本稿は、森田暁氏の記憶に基づいたものです。当時の情報等をご存じの方は、編集部までご一報下さい。info@dokushojin.co.jp
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