齋藤元紀 講演会載録 ハイデガー「黒ノート」の全貌 全三四冊のノートには何が書かれているのか|書評専門紙「週刊読書人ウェブ」
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更新日:2019年6月28日 / 新聞掲載日:2019年6月28日(第3295号)

齋藤元紀 講演会載録
ハイデガー「黒ノート」の全貌
全三四冊のノートには何が書かれているのか

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第4回
「黒ノート」の宛先

このように見てくると、ハイデガーはもっぱらじぶん自身に宛てて「黒ノート」を書いたのだと言えそうです。秘匿されたノートであるのだから当然そうだと言えそうですが、しかし全集として公刊を指示したというところからすれば、やはり読み手をまったく意識していなかったわけでもない。一九四七・四八年に記された「注記Ⅳ」の冒頭では、「私を私の公刊書からのみ知っている者は、私のことを分かっていない」というライプニッツのプラキウス宛書簡の言葉が引かれています。よく知られているとおり、ライプニッツの生前の公刊書物はごく限られたものでした。ハイデガーもこれにならって、「黒ノート」に書かれていることがわからなければ、自らの公刊著作は理解できないだろうと語ったと推測できます。それにしても、「ヒュポムネーマタ」のように、ひたすら自己自身へ宛てているかに見える「黒ノート」の思考が、どのようにして読み手に開かれるというのでしょうか。フーコーならここで「書簡」という書き手と読み手が対面するもう一つの形式を挙げたでしょうが、おそらくハイデガーにとってそれに代わるのは、まさに全集としての「黒ノート」そのもの、ということになってしまいます。ひたすら自身へ宛てたノートがそれ自体、私たち読み手への書簡だというわけです。

しかしいずれにしても、それによってハイデガーは一体何を伝えようとしているのか。これは雑駁な見通しに過ぎませんが、まず一つには、自らの思考をめぐって同じような思索が繰り返し反復されているかに見えて、そこで生じる自己自身からのズレ、いわば記憶の外在化のさいに生まれる自己自身からの距離、こう言ってよければ、書くことをとおして絶えず生み出される多くのもう一人の自己自身との差異、その有り様を見届けようとしているところがあるように思います。自己自身の存在について考えるとき、自己自身の思考について考えるとき、常に同じことを言っているように見えるけれども、そこでは常に多くのもう一人の自己自身が立ち現れ、ズレや差異が生まれてくる。

そこでハイデガーはもう一つ、そうした差異やずれがなぜ生じるのかということに対して目を凝らしていく作業のなかへと、公刊全集というものをとおして多くの読み手をも巻き込もうとしているのではないでしょうか。私たちの語っている言葉も常に同じ言葉であり、繰り返し「私は」「私は」と語っているわけですが、それでもその私自身は日々変化している。それは私自身の存在そのものが震動し、ズレと差異を生み出しながら変容し続けているからです。ハイデガーからすると、そういう振動や変容の震源地となっているのは、原存在が出来事として生起しているからです。同一に見えるがそのつど揺らぐ原存在の出来事を書き記すことで、ハイデガーという(複数の)書き手とわれわれ(複数の)読み手を、他ならぬこの原存在の出来事へと巻き込もうとしているのではないでしょうか。

しかし他方、原存在は様々なズレや差異を生んでいるにもかかわらず、その偏差はあまりにも微細であるために、ふだん私たちの日常ではほとんど意識されることがない。そのため、自己自身のうちに孕む複数の自己やその震源地は無視されてゆく。むしろズレや差異が意識されるのは「個人」と「個人」の違いということになるけれども、これもあまりに分散化が進み過ぎると、今度は逆に水平化が起こる。みんな違ってみんないいよね、違っているという点ではみんな一緒、みんな「同じ」だね、ということになってしまう。そして今度はその「同じ」から外れるものは、すべて許されざる「差異」として斥けられるべきものとなる。公に開かれるときには、それぞれに差異が生まれているはずで、アーレントなら「ユニークネス」と言うところでしょうが、けれども同時に、極端な水平化、極端な差別化も生じる可能性があるわけです。ハイデガーが『存在と時間』では「世人」と呼び、「黒ノート」等では「計算的思考」と名指して批判した均一化の傾向も、そうした水平化を名指すものと言えるでしょう。「黒ノート」自体、全集として誰もが接しうる「公刊書」となれば、当然そうした危険から逃れるわけにはいきません。同じことしか書いていないメモ。奇妙なうわ言だけが記されたノート。世間蔑視の個人的心情を吐露した日記。しかしそうした見方にはどうしても回収しきれない、私たち自身の存在に根ざす、微細ながらも決して消し去ることのできない震動と差異の発生のさまを「黒ノート」は伝えようとしているように思われるのです。
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