齋藤元紀 講演会載録 ハイデガー「黒ノート」の全貌 全三四冊のノートには何が書かれているのか|書評専門紙「週刊読書人ウェブ」
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更新日:2019年6月28日 / 新聞掲載日:2019年6月28日(第3295号)

齋藤元紀 講演会載録
ハイデガー「黒ノート」の全貌
全三四冊のノートには何が書かれているのか

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第6回
自己の中の歴史、歴史の中の自己

こうして「黒ノート」では、ハイデガーがみずからの思考の変遷を振り返る作業とともに、そうした自己の思考を歴史の中に位置づける作業が、並行して行われていきます。自己の中の歴史を見つめる前者の作業は、『存在と時間』の克服や、さらにまた先に述べたような『哲学の寄与』における原存在の出来事という事態の真相をさらに掘り下げて捉えていくものとしても展開されています。一九三一年の時点ですでに『存在と時間』は「不完全な試み」であったと述べられており、三二年の三月にはこうも言われています。「こんにち、私は明らかに、以前に著わしたもの(『存在と時間』『形而上学とは何か』『カント書』『根拠の本質について』)に違和感を覚えるようになってしまったところにいる」。他方では「一書の人のままでいる危険を冒すこと」という言葉も覗きます。「一書の人」は、いわゆる一発屋という意味もあれば、とにかくひとつの書物に集中していくという意味もあるわけですが、ともかくも『存在と時間』のプログラムを続行するということの重要性は強調されていると言ってよいでしょう。
時間性ひいては歴史性が『存在と時間』では主要な問題とされていましたが、「黒ノート」ではそれを空間へも拡大してゆくアプローチも取られています。そのさいに辿られるのは、言語から民族へという経路です。空間は自然科学的に表象された均質的空間などではなく、人間が言語によってさまざまな物事を語ったり、沈黙したりすることで具体化される開けた場のことです。そしてそうした場に立つのは、これも主観として表象されるような形式的で中立的な人間主体ではなく、民族であるとされます。自らの歴史をいかに語るのかという問題と、そうした歴史を語る主体をどこに位置づけるのかという問題がここで絡み合います。そこでハイデガーは、具体的にいまここに存在する、そうした現存在の具体性を時間と空間のうちに盛り込もうとするわけですが、そこで基礎に置かれるのは「決断」です。こうした構図は『存在と時間』を引き継いでいるわけですが、それはしばしば批判されてきたような空疎な決断主義に尽きるわけではなく、将来へ向けて過去のいかなる歴史をどのように引き受けていくのかという、きわめて現実的な具体的な負荷のかかった側面をも有しています。そうした側面を引き受けることができるのは、形式的で中立的な主観ではなく、どこであれこの世界に生まれた場所をもち、どこであれ現にそこで生活を営んでいる血の通った人間であり、またそうした人々の共同体であるはずです。こうした具体性を現存在にもたせようとするハイデガーの意図からすれば、民族といったものが立ち上がってくるのはそれほど不思議な話ではないわけですが、しかし問題となるのはその内実がどう埋められていったのか、という点です。
共同体を作り上げるにはもちろん一定の組織化が必要ですが、しかしそれが血の通わない合理化として進んでしまうと、人々は均一化されて組織の歯車となってしまう。ところがいまやそうした合理化は、人間のみならずあらゆる存在者を呑み込み、世界全体、さらには歴史全体をも覆い尽くすにまで至っている。いわば世界と歴史全体の機械化です。『存在と時間』にもみられた公共性批判は、こうしていまや時間と空間の全体の機械化にまで拡張されることになるのですが、しかし実はこうした動向を展開させている当のものは、原存在それ自身に由来している。これがのちに「総駆立体制(Ge-stell)」と呼ばれることになる当のものです。こうした平均化と合理化を推し進める計算的思考の蔓延によって、共同体の形成もその内外から阻まれているという危機感を、ハイデガーは抱いていました。
学長職にあった時期の「黒ノート」では、当時の国家社会主義による大学統制や学内組織の硬直化についての愚痴もこぼされていますが、そこに窺えるのも、組織の内側に巣食う計算的思考への批判です。ハイデガーは「不可避的なもの」という言い回しによって、こうした計算的思考と本来の思考の区別を見極めようともしています。この「不可避的なもの」とは、原初以来の歴史のなかで、存在がわれわれにとって避け難いものとして到来しているという事態を指します。私たちが逃避しうるもの、計算的思考によって文字どおり打算的に振舞えることのできるものは、そのかぎりで不可避的なものではありません。絶対的に私たちが回避しえないもの、そうしたものへ惑わされることなく身を置け、ともハイデガーは述べています。こうした不可避的な存在の到来を受け止める思考によってこそ共同体は確立されうるのだから、計算的思考は徹底的に退けられるべきだ、というわけです。
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