齋藤元紀 講演会載録 ハイデガー「黒ノート」の全貌 全三四冊のノートには何が書かれているのか|書評専門紙「週刊読書人ウェブ」
マイページで記事のブックマーク!
ログイン
マイページ登録

トップページ

特集

書評

連載

コラム

ニュース

読書人とは マイページ

読書人紙面掲載 特集
更新日:2019年6月28日 / 新聞掲載日:2019年6月28日(第3295号)

齋藤元紀 講演会載録
ハイデガー「黒ノート」の全貌
全三四冊のノートには何が書かれているのか

このエントリーをはてなブックマークに追加
第8回
四方域と対話

こうした敗戦における「自己無化」によって、存在をめぐる思考はもはや何らかの国籍や人種で収まる話ではなくなってしまった、とも言えそうです。いわば存在をめぐる思考は、もはや誰のものでもない思考となってしまったのです。『存在と時間』の言い回しなら、そうした「誰でもない」思考は「無名」の「世人」の思考であるということになるわけですが、いまや事態は全く逆に、三十年代以降から終戦以前における経験的な地盤性の縛りを外れ、より開かれた地盤性とさらなる超越論的次元へと思考は展開されたと考えられます。そうした転換が見てとれるように思われるのは、終戦直後の「黒ノート」において前面に浮上してくる「四方域(Geviert)」と「対話(Gespräch)」の概念です。

四六年にハイデガーは戦時中のナチス協力の廉により、フライブルク大学での教授職の無期限停止という命令を下されましたが、四九年には名誉教授に復職、ブレーメン連続講演で初めて「四方域」――大地、天、神的なるものたち、死すべきものたち」が相互共属しつつ、「物」としての存在者に宿るありさまについて語りました。ところが「黒ノート」では、それに先立つ四六/四七年の「注記Ⅲ」において、「原存在」に×印が付され、「四方域」の着想が芽生え始めていたことがわかります。「《原存在》は、匿いながら配定(Austrag)を名指しているが、それは、存在者と存在の差異の真-理としては思考されることもなく名指されることもないディアポラ(差異)であって、オン(存在する者/存在すること)という分詞の両義性のうちにあらかじめ語られながら包み隠されている」。「存在、および原存在としての原存在。この×印は、かつて用いられていた名称のなかでも、原存在させること(Seynlassen)として共に考えられ、思考されていた。原存在」。存在論的差異に先行する原存在それ自身の差異化、それをこの×印は示しているわけです。

「四書」と呼ばれる「黒ノート」は、四七年から五十年にかけて執筆されたもので、四方域の四つのエレメントをめぐる考察を重点的に展開していますが、それによるとこの×印は、世界が出来事として生起するさいの第四の次元として、四方域を示すものだと言われています。「近さ、すなわち時間の媒介的次元としての第四の次元(世界)――これは、精神よりも生き生きとしたものであり、普遍的なものよりも本質的であり、あらゆる意味よりもいっそう意味を含んだものである。世界の出来事。言葉の本質の近さ——。この第四の次元は、一つでありかつ第一のものとして、四方域に基づく。出来事と遠さの除去(Entfernung)」。そしてこの世界の出来事の現出を近づける「言葉」は、ここで「対話」と呼ばれています。「対話は言葉の対話である。/言葉は世界の根源的な告知である。/対話は根源的な告知の告げ知らせである。/対話は根源的な告知を探り当てる。…/言葉の対話は土地の場所性を経験する。/言葉は大地の現世的な天である」。世界の出来事の現出を私たちの下にもたらす対話が、まさに私たちの生きた経験を与えてくれるというわけです。

「四書」では、こうした「対話」をめぐる記述が膨大なものとなり、決断の契機も随所に見られるものの、その強調点は明らかに後退しています。ここでは原存在の出来事を中心とした決断的革命も、また民族や国家間の区別による捩じれや軋みも影を潜め、世界の出来事があるがままに言葉にもたらされるありさまを描き出そうとする姿勢がうかがえます。それは間違いなく、「ヒューマニズム書簡」にみられるように、「本質の貧しさのうちへ下り」て、「単純に言うことのうちへ言葉を」集め、言葉のうちへ「目立たぬ畝」よりも「なお目立たぬもの」を刻む姿勢につながっているのです。
(おわり)
1 2 3 4 5 6 7
このエントリーをはてなブックマークに追加
齋藤 元紀 氏の関連記事
マルティン・ハイデーガー 氏の関連記事
読書人紙面掲載 特集のその他の記事
読書人紙面掲載 特集をもっと見る >
学問・人文 > 哲学・思想 > ハイデガー関連記事
ハイデガーの関連記事をもっと見る >