外山恒一連続インタビューシリーズ「日本学生運動史」 もうひとつの〝東大闘争〟――〝東大全共闘・議長〟山本義隆―― 「東大反百年闘争」の当事者・森田暁氏に聞く⑥|書評専門紙「週刊読書人ウェブ」
マイページで記事のブックマーク!
ログイン
マイページ登録

トップページ

特集

書評

連載

コラム

ニュース

読書人とは マイページ

もうひとつの〝東大闘争〟
更新日:2019年7月5日 / 新聞掲載日:2019年7月5日(第3295号)

外山恒一連続インタビューシリーズ「日本学生運動史」
もうひとつの〝東大闘争〟――〝東大全共闘・議長〟山本義隆――
「東大反百年闘争」の当事者・森田暁氏に聞く⑥

このエントリーをはてなブックマークに追加
当時の学内の雰囲気を伝える「ビラ」
外山 
 八〇年代にもまだ、(本郷では大学施設の)占拠が続いてたわけですね。
森田 
 いつまで続いたのか、たぶん八〇年代いっぱいぐらいだと思いますが、ぼくも詳しくは知りません。で、それは誰が占拠してたのかというと、東大全共闘の残党たちです。たとえばOさんという人がいました。Oさんは京都大学でずっと関西ブントの学生運動をしていた人です。以前、一昨年亡くなられた赤軍派議長の塩見孝也さんと話す機会がありました。Oさんの話をすると、教養部の頃同じクラスだったということでした。塩見さんは一九六二年入学です。彼はたまたま一九六八年の東大闘争の年、四月に東大本郷にある人文系大学院文化人類学専攻に入学します。泉靖一教授のもとに。

Оさんは〝研究〟なんかやるわけない人なんだけどね。やっぱり闘争をやりにきたんでしょう。もちろんちゃんと東大闘争に参加して、その後も持続して活動してました。応微研の人たちが文部省に「お前ら全員クビにするぞ」と脅されて、ビビって多くが寝返っちゃった時も、どうにかエレベーター・ホールの上の鳩小屋みたいなスペースを確保して、「応微研労研」と称して何人かで活動を続けていたす。

つまり応微研労研というのがあり、赤レンガがあり〔註1〕、あと東大闘争の発端になった医学部の「青医連(青年医師連合)」も、当時の活動家たちもその後はそのまま医者になってますし、医者だから東大病院にも何人もずっといるわけですよ。赤レンガの主体は「精神科医師連合」です。一九八〇年代は宇都宮病院糾弾闘争を展開します。そんなふうに病院は病院で拠点があるし、赤レンガもあるし、応微研にも労研という形で拠点が残ったもんだから、そういうところへ、ぼくら七〇年入学、七一年入学の連中が入っていく時期になると、一気に三つの自治会(医学部・工学部・農学部)を獲っちゃうんです。駒場では民青に勝てなかったけど、本郷に行くと……。
外山 
 何年に本郷に進学するんでしたっけ?
森田 
 えーと、七二年の春にバリケード・ストがあって、ぼくはそのまま落第するんだけど、他は大体みんな、うまくスリ抜けて進級して、七一年入学組は七三年になってから本郷進学かな……。

しかし本当は文学部や理学部の自治会も獲れるかと思ってたんだけど、そこまでは甘くなくて、やっぱり東大は共産党が強いですからね。でも農学部はわりとあっさり獲れちゃうんです。東大闘争の時にも林学科なんかは、全共闘の拠点のひとつだったし、組合にも中核派系の「演習林労働組合」というのもありました。東大の農学部は北海道から九州まで、いくつも演習林というのを持ってて、その労働組合が中核派系なんですよ。病院のほうも、今はもうないんですが、東大病院には「大塚分院」というのがあって、そこの分院労組というのが有名な中核派系の組合でした。〝学生の中核派〟というのは東大にはごく少数しかいないんですけど、研究所とか職員組合には中核派もかなりの勢力を持ってたんですよ。で、医学部も私たち新入生世代の全共闘系で自治会をぶん獲って……。
外山 
 それは七三年とかですか?
森田 
 ええ、七三年の秋です。だから東大の全共闘系って、六八年当時の人間ですら〝安田講堂で全部終わった〟みたいなことを云うんだけど、ちっとも終わってない。実はそのことをつい最近も『季刊ピープルズ・プラン』という雑誌に書いたんです(第82号、一九一八年十一月、「書評 小杉亮子著『東大闘争の語り:社会運動の余示と戦略』」)。『東大闘争の語り』という本はお読みになりました?
外山 
 まだです。
森田 
 あれは面白い本ですよ。全共闘系の記述はいまひとつ面白くないんですけど、民青の部分がものすごく面白いんです。東大闘争って、全共闘だけじゃなくて民青もいるわけでしょ。やっぱり日本共産党は東大を乗っ取るためにちゃんと画策してて、ある意味では、全共闘もそれに踊らされてただけだという気がしてきます。すごいんだから。綿密なプランを作って民青は動いてる。〝壮大なるゼロ〟と云われた最初の七千人集会にしても、たぶん民青は全力動員で集めたんだと思います。

日大全共闘というのは、本当に実体があったんですよね。しかし東大全共闘って、そんなものないですよ。各学部レベル、学科レベルにそれぞれあったという感じでしょう。医学部の闘争委員会というのはちゃんと存在した。文学部にも革マルがいたし、非・革マルもいた。工学部あたりにも、都市工学科の闘争委員会はありました。農学部の林学科闘争委員会もありました。そういう具合に部分的にいくつかあっただけで、全体として〝東大全共闘〟と呼べるような統一組織なんて、なかったんじゃないか、と。しかも本郷の場合、東大で何か起きたとなると完全にもう、全党派が動きますから、結局は山本義隆さんって、本人も云ってるとおり、その調整役でしかない。〝東大全共闘・議長〟っていう、ほんとにまさに〝議長〟でしかないんだから。「そちらの意見はこうで……そちらはいかがですか?」みたいな、そんなのは実体があるとは云えませんよ。それに比べて日大全共闘というのは、最初から実体があるんです。〈次号につづく〉
〔註1〕6月28日号参照。
【編集部より】本稿は、森田暁氏の記憶に基づいたものです。当時の情報等をご存じの方は、編集部までご一報下さい。info@dokushojin.co.jp
このエントリーをはてなブックマークに追加
外山 恒一 氏の関連記事
森田 暁 氏の関連記事
もうひとつの〝東大闘争〟のその他の記事
もうひとつの〝東大闘争〟をもっと見る >
歴史・地理 > 日本史 > 昭和史関連記事
昭和史の関連記事をもっと見る >