醒めよ我が同胞(はらから) ――自由民主主義の隘路――|書評専門紙「週刊読書人ウェブ」
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更新日:2019年7月7日 / 新聞掲載日:2019年7月5日(第3295号)

醒めよ我が同胞(はらから)
――自由民主主義の隘路――

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民主主義と自由主義の両立不能が囁かれ、少なくともその幸福な結合が危機に瀕していると認識されてから既に久しいが、ここではひとまず、加速主義――進歩への?――含めた「反動」に対し、良識的にその超克を拒み保守せんと企図されているところの自由民主主義における主体とは何者かと問うてみたい。

「自由と民主主義万歳! われらコソ泥たち――ケーススタディ」(『G-W-G』3号)のなかで絓秀実はこれに答えて曰く、コソ泥にほかならない、と。ジークムント・フロイトの『トーテムとタブー』に記されて周知の、原父を殺し独占されていた女を分配し以て平等な兄弟関係を打建てる息子たちの神話をいうなれば民主主義の根源的光景と捉えることで、絓は御都合主義的な理想化を排す。民主主義は特権的な享楽独占者の君臨阻止を命題とするのであり、一般に下からの民主主義と称される運動にあってはこの兄弟全員による能動的な父殺し――斬首に留まらず、ひろく換言して「上」の引き摺り下ろし――が機制として働いている。この民主主義的平等の外延は拡張されえ、例えば男性‐人間に対し、民主主義に即して女性がその「上」の特権を剝奪し以て平等な兄弟‐人間の地位を要求することも可能だ。けれども概してそこには別の機制もかかわっており、近代においてそれは自由主義が担った。原父の殺害後に次の原父を生み出さず兄弟の平等を実現するためには、みなが原父の享楽を断念し、個々には縮減された享楽に甘んずるべく兄弟間の抑制に準ずる必要があり、その典型をなす事例は絓が挙げるとおり一夫一婦制だとすれば、自由主義は個々が得た能力や環境等々で享受しうる享楽の追求をその結果如何を問わず肯定する。性別その他の生得的属性にもとづく固定的な役割分担など自由主義においては当然ながら否定されるべきで、(白人/日本人)ヘテロ健常男性に対する諸々のマイノリティの民主的平等の実現にこの契機は与って力がある。そして、民主主義を放棄しないかぎり兄弟関係に拠る道徳の抑制は抜き難いとしても――例えば性関係の自由が標榜される現在も重婚は通常認められない――いまや多様なライフスタイルがそのもとで展開されるだろうと同時に、この動向を資本主義と切り離して語るのは相当な難事であるのも断わるまでもない。

とまれ、民主主義と自由主義とを両立させる主体――それが良識的なマジョリティであればあるほど――は表立っては平等が想定されるまで享楽を縮減し慎みながら、時折ひそかに、ないしそれとは無縁の態で幾許かの享楽の自由――へそくりや趣味や癖、妄想や不倫等々――を行使する。したがって自由民主主義における主体はコソ泥仮面紳士/淑女であるほかない。だが実のところ、だれもが平和にコソ泥であるのは、自他のプライヴァシーをむやみに晒さないとのいまも堅固な小市民的道徳にも確認できるとおり、だれしも互いに平等の擬制を保ちつつその外面から外れる若干の享楽を嗜む程度の自由を黙認することがいわずもがなの前提であってこそだ。このある種の不文律を欺瞞と非難するなら民主と自由のいずれかを棄却しなければならず、片やコソ泥ならぬ大泥棒であることの疚しさなき僭称と、片や「心のなかの姦淫」をイエスが説くのを聞いた傍から咎人へ眉ひとつ動かさず石を投げつけかねない清貧ぶりの誇示との幅のなかで、概略「反動加速」が民主を棄却するとすれば、「保守リベラル」は自由に対する禁欲を強める傾向にある。その禁欲が危機に瀕した自由民主主義への是正に通ずると見做されているわけだ。

しかし、既述のごとく民主主義も活性化せしめる多様な自由において、平等が想定される程度にまで抑えた享楽――兄弟の分け前――に関して一般の承認を得るのが、男性‐人間が自明だったころよりも困難になっているとすれば? 自由民主主義においては、多様な享楽が尊重されみながこれに寛容であるべき一方で、そのうち特権的な享楽の独占者を導出してはならず、その格差が拡大し不平等が蔓延するのも望ましくない。だが、ではそれら自由な民のあいだで平等を仮構しうる享楽の度合いが共有されているかといえば、それはなく、故に民主主義は近年享楽の盗みを巡る真偽入り乱れてのさまざまな係争――喫煙の是非から「マイノリティ特権」の有無まで――と化して機能する。

享楽の盗みに対する感性の昨今の隆盛は、みずからを本来的な原父の享楽からの疎外態と捉えたためでなく、多様で自由な民らにあって相互に平等に与る――中流的?――兄弟をひろく形成しえないことに拠る。その表面上みなに妥当する平等な享楽をだれも想定できず、見えざる手が自生的にそこへ導くこともない以上、ここで端から典型たりえない原父を埒外に置き、然るべき基準や均衡を図れないまま、隣の芝生の享楽の糾弾だけが民主主義の内実として剝き出しに現出する。民主主義が常時コソ泥を、つまり他人の享楽の盗みを咎め、糾弾しあう――しばしばそれ自体をみなで民主的に(!)享楽する――ことで独占や格差を抑制するとすれば、いまやその振舞いは各々の平等もしくは同質性を築くべく機能していない。二〇世紀の自由民主主義が国民国家と不可分離だったなら、現在のそれは似て非なるものであって、享楽の糾弾はむしろピエール・クラストル的な戦争と近しい。

クラストルが抽出した戦争は国家の出現を抑止する戦争として知られる。この戦争を闘う諸部族はそれを際限ないポトラッチとして遂行するのであり、敵部族を支配従属下に置くこと、したがって諸部族を統合する超越的主体化をみずからに課すことは決してなく、敵を打ち負かさんとし殲滅に追い遣ることもあるものの、そこではひたすらみずからの部族内部の限定的ローカルな凝集性を強めるのみで高次の権力への転化を徹底して回避する。これを鑑みるに、民主主義の実践として現在倦むことなく他人による享楽の盗みを狩り合ってやまない複数のアイデンティティ及びクラスタは、たとえみずから国民や真の愛国者云々を自認していたとしても、種族と呼ぶのがふさわしい。

もちろん世界資本主義体制のなかで国家権力はかつてなく増大しているとすれば、クラストル的戦争との併行性は現在、国家に依拠し、または等閑に付したままの国民の種族への解体――そのこと自体が現今の資本主義に益する――として、ひいてはそれら諸々の種族が高次の人民の権力、せめて憲法制定権力すらも志向せず、むしろ「反動」「保守」問わず大勢が社会的弱者またはその同伴者たることを以て種族の凝集性を高めている――詳述の余裕はないが、人類と通底すると見做されているとしても――ことに現われている。付言すれば、「選挙に行こう」に類するスローガンは「権力を取らずに世界を変える」なる弱い論理と親和的なものにすぎず、日本においては国家――現在ならともかくも「アベ政治」と天皇制の両者――を碌に敵としたことがないとの認識からして稀薄だ。資本主義と国家の結託のもとに服したうえでクラストル的戦争に興じ以て人民の抵抗権力を資本主義‐国家に害なき程度に抑制すべく互いに殲滅も辞さない敵とひそかに共犯関係を取り結ぶのがいま民主主義と呼ばれる政治だとするなら、その真の敵は――不在の父でなく――不在の人民なのだ。

本稿を閉じるにあたりバカ噺をひとつ。さしあたり日本に限定されるとしても、諸々の種族を高次の人民へ引き上げる方途はないでない。とは、それぞれ享楽の自由を謳う多様な諸種族が平等を築けないのは、彼/女らがともに親を殺していないことにこそ要因があるとすれば、植民地同然の「一億総活躍社会」で狩り合いに興じる者どもをにこやかに眺める親、眼下のそれがせせこましく映るほど独占的に享楽を盗みながら結局のところしもじもから免罪を取りつけ胡坐をかく親を共通の敵と定め殺すこと、これにほかならない。万国の諸種族よ、団結せよ!
(ながはま・かずま=批評家)
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