国語が変わる、文学が消える⁈      黒川創「覚えていること」、高山羽根子「如何様」|書評専門紙「週刊読書人ウェブ」
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更新日:2019年7月7日 / 新聞掲載日:2019年7月5日(第3295号)

国語が変わる、文学が消える⁈     
黒川創「覚えていること」、高山羽根子「如何様」

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教育が変わろうとしている。果たしてどのように? 『すばる』が特集を組み、そのことを、検証している。まず、大きく変わるのは国語教育だ。詳しい変化の内容は、同誌の伊藤氏貴の寄稿にあたっていただければ早いが、大きく言えば、文学が消える可能性があり、その分、実用的な国語、すなわち論理国語が出現する。そこでは「生きるために必要な国語」が教えられるというのだが、伊藤氏貴は次のように嘆く。
「生きるために必要な力だというなら、これは大学進学以前の問題であり、中学卒業時点で備わっていなければならないものなのではないだろうか。(中略)。大学に入る際に、高校の生徒会規約が読めても手遅れなのではないだろうか。そもそもこうしたものは、大学でどの学問分野に連結するものなのだろうか」

全くその通りだ。それに応答する形で、内田樹、小川洋子、茂木健一郎の各氏が自説を述べている。が、正直、どこか他人事に聞こえてしまうのは私だけだろうか。もっと現場の声を聞いてみたい。

それ以外のエデュケーションに関する論考では、橋本紀子の「世界から見た日本の性教育 ――国際的視野と戦後の性教育のあゆみから」と辛島デイヴィッド「僕らのインター遍歴」を興味深く読んだ。橋本の論考は私を憤慨させるに十分な指摘がされていた。いかに日本の性教育が遅れているか。学習指導要領の「歯止め規定」たるものがいかに馬鹿げているか。「性教育は『寝た子を起こす』という誤った性教育観と、子どもへの不信感がある」という橋本の論は広く読まれるべきだろう。辛島デイヴィッドのエッセイのなかに「多様性」という言葉が出てくる。無論、現代のキーワードの一つだ。しかし、物事の見方を変えると、そのキーワードはそれが持つ正義がひっくり返ったものとして現れる。「多様性」に振り回された「僕ら」がどれだけ惨めか。そのことを告げる、皮肉で辛辣な文章だ。

物事の見方を変える。文学とはその力に満ちたものであるのだ。黒川創「覚えていること」(『新潮』)は「『戦争』の輪郭線」を変えてみようとする記者の短い物語だ。短いが、歴史を少しだけ正面からずれた角度で見ることがどれだけ労力の必要なことであるかを教えてくれる作品となっている。ある「外交伝書使」、交換船に乗せられ欧州を右往左往した外交官、湯川秀樹、戦時下日本に演奏するため来日したドイツの女性音楽家。彼女・彼らの「移動」を通して眺めると、戦争はまた別の姿を現す。そのような輪郭線を描いておくべきだという著者の思想(と言っていいだろう)が表出して見える。誰かが「覚えていること」は今のうちに記録しておくべきだ。すっかり忘れてしまう前に。

今月は短編が多い。インドへ短期留学をした末に、主人公が生々しく手に取るように触れた「死」という「彼岸」への入り口を描いた高橋弘希「花束と水葬」(『すばる』)。生存率が数値化されて見えるようになった世界での恋愛は可能なのかを問う村田沙耶香「生存」(『文學界』)。どれも、作者の見つめているものがはっきりとわかる掌篇だ。しかし、私は彼女たちの長い小説を読みたい。余計なお世話かもしれないが、そのための胆力を、彼女たちは鍛えるべきではないのかと思ってしまう。

高山羽根子「如何様」(『トリッパー』)は真贋の間にある不確かな手触りとは何かを物語を通じて読者に開陳しようとした中編小説だ。戦後、平泉貫一という画家が復員してきた。しかし、戻ってきた彼は出兵前とは似ても似付かぬ姿だった。果たして彼は「本物」なのか。その真偽を調査すべく記者であり探偵業も営んでいる「私」が雇われる。貫一はどうやら贋作を作るのに長けていたらしい。では贋作とは何故に贋作と決めつけられるのか。「女性の美しさをうたった詩は偽物で、美しい女性だけが本物なのだろうか」真贋とは〈信贋〉であり、それが反転して〈信真〉となるなら、それで良いのではないか。物語はそう告げる。力作である。(ながせ・かい=ライター・書評家)
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