安部公房 寄稿 “三島美学”の傲慢な挑戦 ――映画「憂国」のはらむ問題は何か 『週刊読書人』1966(昭和41)年5月2日号 1面掲載|書評専門紙「週刊読書人ウェブ」
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更新日:2019年7月7日 / 新聞掲載日:-0001年11月30日(第623号)

安部公房 寄稿
“三島美学”の傲慢な挑戦 ――映画「憂国」のはらむ問題は何か
『週刊読書人』1966(昭和41)年5月2日号 1面掲載

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第2回
不安定さのもつ緊張感


では、共感を感じた部分が、そうした表現上の成果についてであり、反撥を感じた部分が、二・二六事件という背景のすえかたにあったのかというと、やはりそうも言い切ってしまえないように思うのだ。

たとえば、小説の場合、背景の設定など、ほとんど気にせずにすませられた。文体がつくりだす超歴史的な額縁のせいか、遠近法をきかせた銅版画のような、童話的情景をさえ感じさせた。映画の場合も、たぶん同じように受取るべきだったのだろう。事実、時がたつにつれて、その背景の問題はさして気にならなくなってきたようだ。どうやら作者の黙殺のほうに理があったのかもしれない。

反発のほうを言えば、そんなことよりも、やはり愛と死の悲劇的結合という、その主題そのものに対してだったのではあるまいか。たとえば植物の笹でも、死に瀕すれば、実を結ぶ。このあまりにも古典的な常識を、『サド侯爵夫人』の作者ほどのものが、ビスケットの型抜きをあつかうような手つきで再生してみせるとは、いささか無邪気すぎるように思われるのだが、無邪気すぎて、かえって作意を感じてしまうのだ。愛と死の結合が、なぜいまさら悲劇でなければならないのか、ぼくにはやはりどうしても飲み込めない。あるいはぼくが、この作品を、不当に美学的に解釈しすぎてしまったせいだろうか。
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