安部公房 寄稿 “三島美学”の傲慢な挑戦 ――映画「憂国」のはらむ問題は何か 『週刊読書人』1966(昭和41)年5月2日号 1面掲載|書評専門紙「週刊読書人ウェブ」
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更新日:2019年7月7日 / 新聞掲載日:-0001年11月30日(第623号)

安部公房 寄稿
“三島美学”の傲慢な挑戦 ――映画「憂国」のはらむ問題は何か
『週刊読書人』1966(昭和41)年5月2日号 1面掲載

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第3回
脱帽を惜しまぬ姿勢


そうかもしれない。小説があまりに美学的でありすぎたために、ついそうした見かたに、ひきずられてしまったのかもしれない。考えてみると、小説を支えていたあの精緻な均衡とくらべて、映画のほうは、なにかひどく安定に欠けたところがあったように思う。そして、ぼくがひきつけられたのも、むしろそうした、不安定さのもつ緊張感だったような気もするのだ。

その不安定さは、もしかすると、作者が映画を完全には信じていないところからくるものだったかもしれない。信じていないからこそ作者があれほど前面に押し出されて来てしまったのだろう。作者が主役を演じているというようなことではなく、あの作品全体が、まさに作者自身の分身なのだ。自己の作品化をするのが、私小説作家だとすれば、三島由紀夫は逆にこの作品に、自己を転位させようとしたのかもしれない。

むろんそんなことは不可能だ。作者と作品とは、もともとポジとネガの関係にあり、両方を完全に一致させてしまえば、相互に打ち消しあって、無がのこるだけである。そんなことを三島由紀夫が知らないわけがない。知っていながらあえてその不可能に挑戦したのだろう。なんという傲慢な、そして逆説的な挑戦であることか。ぼくに、羨望にちかい共感を感じさせたのも、恐らくその不敵な野望のせいだったに違いない。

いずれにしても、単なる作品評などでは片付けてしまえない、大きな問題をはらんでいる。作家の姿勢として、ともかくぼくは脱帽を惜しまない。(あべ・こうぼう氏=作家)
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