評伝ジャン・ユスターシュ 映画は人生のように 書評|須藤 健太郎(共和国 )|書評専門紙「週刊読書人ウェブ」
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読書人紙面掲載 書評
更新日:2019年7月13日 / 新聞掲載日:2019年7月12日(第3297号)

評伝ジャン・ユスターシュ 映画は人生のように 書評
経験と反復、言葉と神秘主義

評伝ジャン・ユスターシュ 映画は人生のように
著 者:須藤 健太郎
出版社:共和国
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 須藤健太郎の『評伝ジャン・ユスターシュ 映画は人生のように』(共和国)はパリ第三大学に提出された博士論文の日本語版である。人生と作品が密接に結びついた特異な映画監督、ジャン・ユスターシュの全作品を、評伝の形式を借りながら分析している。

三部構成の書物だ。第一部は四章からなり、処女作『わるい仲間』から『ナンバー・ゼロ』までの道のりを、経験をキーワードとして四つの観点から四度辿る。第一章では当時の映画製作の状況という観点から、第二章では「口承の語り」(五四頁)という観点から、第三章ではテレビとの関係という観点から、第四章では「純粋な記録」(九五頁)という観点から、それぞれ辿られている。第二部は三章からなり、『ママと娼婦』と『ぼくの小さな恋人たち』を鏡という主題を軸に論じる。第五章では『ママと娼婦』以前に書かれていた『ぼくの小さな恋人たち』の脚本第一稿が考察される。第六章では『ママと娼婦』が「引用の織物」(一四〇頁)という観点から、第七章ではこれら二本の映画が、「空虚な鏡」(一八六頁)の主観性という観点から考察される。経験を映画化する試みに鏡のような主体という要素が付加されるのだ。第三部も三章からなり、『不愉快な話』以降の作品を反復という主題を軸に論じる。第八章では『不愉快な話』から『求人』までの作品が考察され、第九章では遺作『アリックスの写真』が場面ごとに詳細に分析される。最後に、第十章では遺作前後から拳銃自殺に至るまでの間の、未完に終わった企画がいくつか考察される。『不愉快な話』が示す反復の構造は晩年まで様々な形で監督につきまとう。

この書物の最大の美点は、未公刊の数多くの資料を調べ、多数の関係者から証言を集めた点にある。研究者の手本とも言うべき仕事であり、その行動力と熱意には感服するしかない。今後、ユスターシュを論じる際には、本書の参照が必須になるだろう。注意すべきは、タイトルには評伝とあるが、これは厳密な意味での評伝ではないことだ。著者は監督の私生活には興味を示さず、あくまで作品の製作過程を明らかにすることに焦点を絞っている。

第七章における『ママと娼婦』とヒッチコックの『めまい』の比較など、秀逸な分析も散見される。だが、結論部なきこの書物は、ユスターシュの映画の様々な考察や分析を通じて、一体何を明らかにしたのだろうか。

二つ挙げられるだろう。まず、経験から反復へ至る作品の美学的な変容が示されている。経験と作品の間に反復が最初からあったのだから、経験の映画化に拘る監督がやがて反復それ自体を主題化するようになったのは、ある意味自然なことだ。反復には差異が常につきまとうが、この美学的な変容において、監督の差異に対する態度もまた変化している。次に、言葉から言葉を超越したものへ至る変容も密かに示されている。すなわち、言葉を何より重視していた筈の監督が、「知性によって捉えられないもの」(二七八頁)、記述を超えたものに接近していくのだ。著者の主張が正しければ、ユスターシュは晩年に神秘主義に陥ったと言わざるを得ない。象徴秩序には亀裂がいくつも存在する。だが、亀裂の奥をいくら探ってもそこには虚無しかない。ユスターシュはそこに何か肯定的なものがあると信じたのか。あるいは、これは単に虚構の問題なのだろうか。
この記事の中でご紹介した本
評伝ジャン・ユスターシュ 映画は人生のように/共和国
評伝ジャン・ユスターシュ 映画は人生のように
著 者:須藤 健太郎
出版社:共和国
以下のオンライン書店でご購入できます
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