天安門事件から30年 廖亦武インタビュー 聞き手=土屋昌明 一般市民が暴力に抵抗した記録  『銃弾とアヘン―「六四天安門」生と死の記憶』(白水社)刊行を機に|書評専門紙「週刊読書人ウェブ」
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更新日:2019年7月12日 / 新聞掲載日:2019年7月12日(第3297号)

天安門事件から30年 廖亦武インタビュー 聞き手=土屋昌明
一般市民が暴力に抵抗した記録  『銃弾とアヘン―「六四天安門」生と死の記憶』(白水社)刊行を機に

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第3回
獄友たちについて海外でアピール

土屋 昌明氏
土屋  
 この本でも王維林のことが出てきますが、監獄で彼に会ったという話はないですか?
廖  
 私はみんなに聞きましたが、誰も王維林がどこに行ったか知らないのです。ネットの情報では、王維林という名前は『フライデー』というイギリスの雑誌の編集者がつけた名前らしい。王維林は失踪したが、その象徴的意義が大きいことは、『銃弾とアヘン』を読んでもらえばわかるでしょう。

非常に多くの人々が、王維林と同じように戦車に立ちはだかったのです。彼らは、王維林ほど運がよくなかった。第一に、彼らは写真に撮られなかった。第二に、彼らは戦車に轢かれてしまった。ある者は銃弾に撃たれた。殴られた者は半殺しにされ、監獄に入れられ、皮をむかれる思いをし、何年も労働改造をさせられたのです。出所後は、忘れ去られただけでなく、人から軽んじられた。

監獄に長くいると、みんな監獄病になって男性機能が失調するんだ。取材の公開に同意した人でも、この問題は書かないでくれと言われました。だから私は、冒頭でこの問題を取り上げています。武文建だけが、自分のインポ経験を公開してもいいと。
土屋  
 日本語版では武文建の絵を口絵にしました。
廖  
 彼は重要人物です。
土屋  
 武文建以外に天安門のことで芸術作品を創った人はいませんか?
廖  
 他の画家でいるかもしれませんが、武文建は「六四暴徒」で唯一の画家です。他の画家にも六四を描いている人はいても、彼は「六四暴徒」の画家なんだ。
土屋  
 あなたが特に関心を持つ暴徒はいますか。例えば李必豊は?
廖  
 李必豊は私の獄友です。彼の経歴は変わっていて、七回も逃亡を図って一度も成功しなかったんです。彼は獄友ではあったが、私自身が「六四暴徒」という集団的存在を認識しておらず、後に武文建に出会ってそれを指摘され、はじめて自分の李必豊との獄中経験が激発されたのです。私がいた監獄には学生はいなかったし。李必豊は税務局の幹部だったんだ。
土屋  
 佘万宝も銀行の幹部でしたね。
廖  
 そうです。彼は出張で北京に行き、事件に遭い、解放軍が逃げる人を背後から撃ち殺したのを目にしました。それを「六四目撃記」に書いて、九十数枚コピーして、帰社途中に頒布したのです。
土屋  
 その「目撃記」は今見ることができませんね。
廖  
 彼は私と同じ監房で、目撃の話を聞くと怒りながら、「あんなことは共産党のすることじゃないんだ、おれに二度とあの話はするな」と言われました。
土屋  
 彼の話をあなたは監獄で聞いたようですが、どのように記録したのですか?
廖  
 六四のこと以外は話にならなかった。彼は共産党員で銀行員らしい頑固な気質が残っていました。取調官に向かっても、六四は絶対に共産党がすべきことではないと言ったので、みんな唖然としたくらいです。「私が書いたことは、すべてこの目で見たことだ」と言うのです。取調官が「自分はデマを信じて間違いを犯したとさえ言えば、地位を保全して刑罰に処さない」と言っているのに、彼はこう答えたんです。「私は共産党員だ、デマを信じたなんて言えるはずがあるか、私はこの目で見たんだ」と。彼の話は監獄でみんなが知っていたことで、私は出所してから書いたのです。出所後も彼とつきあいがあったし。
土屋  
 ということは、基本的には記憶で書いたのですね。
廖  
 佘万宝の話はそうです。北京の暴徒の話は録音しました。
土屋  
 彼のことは『低層訪談録』では仮名になっていて、今回は実名で発表しましたね。
廖 彼はその後、中国民主党の立ち上げで捕まり、十二年入れられました。前後二回で長期間拘留された私の獄友ですから。
土屋  
 李必豊に戻りたいのですが、彼とは縁が深いようなので。
廖  
 彼とも獄中で一緒になり、詩や小説を書くのが好きだったから気が合ったのです。出所後に、海外の人権組織に国内の労働者のことを伝えたために指名手配になり、国境を脱出しようとして何回も失敗、長期間拘留されました。また出所した後、今度は私が国境を脱出することになったのです。

ある日、彼が遊びに来たので、易で占いをしました。彼も私も易占いが好きなのです。彼は自分の運命は正しく占えないが、人の運命は正しく占えたようです。私が脱出した後、友人からの電話で、李必豊が私の巻き添えで捕まったと聞かされました。なぜと私が聞くと、私の脱出を幇助したからと言うのです。全くの事実無根ではないですか。この後、李必豊は十年の判決を受けて、未だ獄中にいます。六四で捕まって五年、その後に七年、今度は十年、合計で何年になるのだろう。
土屋  
 あなたの亡命と彼は何ら関係ないわけですよね?
廖  
 何の関係もない。しかし、そういう話を聞いたからには、彼に申し訳がなく、責任を感じて、ドイツで平和賞をもらったから、彼のことをアピールしたのです。
土屋  
 当局は、どうして李必豊に対してそんなに厳しいのですか?
廖  
 私の国外脱出は当時、大事件でした。それまで、こんな風に逃げおおせた人はいなかったが、ジャスミン革命の時にそういう人が出たのです。私を抑圧していた警察は、私の母親の所や、あちこち行って、どうして脱出に成功したのか調べたらしい。何しろ私は北京のブラックリストにも載っていたから。当局は、私がどうやって逃げたかをはっきりさせたかったのです。私が海外に居住してからも、新華社のニューヨーク支社やシドニー支社の社長などが私の所に来て、ご馳走してくれました。私がいかにして脱出したかを探ろうとしたのです。私はこの時、脱出のことは一切語らず、自伝に書き込むつもりだと言っておきました。今回の本でも、具体的なことはまだ書いていません。
土屋  
 李必豊のためにドイツでアピールしたというのは?
廖  
 私は自由になったのだから、不自由な彼のためにドイツとフランスでアピールしたのです。彼の詩集のドイツ語版を出したり、彼の詩の朗読会をしました。未だに獄中にいるとはいえ、こうして本が出たり、詩の朗読会が行われたりすれば、少しは慰めにもなるでしょう。
土屋  
 ドイツ人は李必豊に関心を持ちました?
廖  
 関心を持ってもらうには、何度も何度もしつこくアピールをしなければなりません。劉暁波夫人の劉霞をドイツに招いたのだって、やはりしつこくアピールしたから実現したのです。しつこくアピールして覚えてもらわなければ、いくら劉暁波夫人と言ったって、なかなか認識してもらえるものではない。
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この記事の中でご紹介した本
銃弾とアヘン  「六四天安門」生と死の記憶 /白水社
銃弾とアヘン  「六四天安門」生と死の記憶
著 者:廖 亦武(リャオ・イーウー)
出版社:白水社
以下のオンライン書店でご購入できます
「銃弾とアヘン  「六四天安門」生と死の記憶 」出版社のホームページはこちら
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