外山恒一連続インタビューシリーズ「日本学生運動史」 もうひとつの〝東大闘争〟 ――一九七四年の駒場/本郷―― 「東大反百年闘争」の当事者・森田暁氏に聞く⑦|書評専門紙「週刊読書人ウェブ」
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もうひとつの〝東大闘争〟
更新日:2019年7月12日 / 新聞掲載日:2019年7月12日(第3297号)

外山恒一連続インタビューシリーズ「日本学生運動史」
もうひとつの〝東大闘争〟 ――一九七四年の駒場/本郷――
「東大反百年闘争」の当事者・森田暁氏に聞く⑦

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森田  
 昨年の六月に「日大闘争五〇周年」の集会があったんで、ぼくも行ってみたんですが、話を聞いて驚きました。日大闘争って、〝ゼロ〟から始まったように云われてるじゃないですか。
外山  
 そうですね。
森田  
 しかし実際は、闘争が始まる前の時点ですでに経済学部は七〇〇人を組織してたというんです。七〇〇人って、たとえ名簿の上だけの話だとしたって、すごいですよね。正史である『叛逆のバリケード』(日本大学文理学部闘争委員会書記局)が強調しているような〝孤立した数人が……〟というのは、たしかに公然と活動してる人数としてはそうだったんだけど、七〇〇人のシンパの名簿をもう持ってた、って。〝司令部〟もちゃんとできてたそうです。その〝司令部〟が、秋田(明大・日大全共闘議長)をリーダーに据えるわけです。

指導してた党派は、中核派とML派なんです。さらに裏を云うと、日大というのは当時、入学する時に「政治活動はしません」という誓約書を書かされたらしいんだけど、〝政治活動〟と〝研究活動〟は別だという了解が六〇年代にはまだあったようで、公認サークルとして「社会科学研究会」が各学部にあったというし、〝社研ネットワーク〟というのも存在してて、それをやってたのは共産党と中核派だったらしい。なるほどなあ、と思いました。たしかにあんな巨大な闘争が、何もなしに一気にできるわけないですよね。

Yさんっていう、六八年ではなく六九年に、日大文理学部に入った人で、だけど六八年の時点でもう「反戦高協」(中核派の高校生組織)で活動してたって人からいろいろ話を聞かせてもらったんですが、つまり『叛逆のバリケード』という本は、あれは意図的にああいう……。
外山  
 ボカして書かれてたわけですね。
森田  
 〝ウブな人たちが決起した〟というふうに見せたいだけであって、実際にはかなりしっかりしたシステムが作られていた。……東大の運動状況に関してどこまで話したっけ? 七四年か。この頃は、前線から離れていたので、これから話すのは後で神話化された物語です。細部には間違いがあるかとは思いますが、一九七八年頃にはこのように語り伝えられていました。七四年に四人だけの〝安田講堂事件〟があった(6月28日号参照)。四人だから、しばらく立てこもって宣言みたいなものを出したというだけですけど、さっきも云ったように、それなりの効果はあったんです。で、その後に、林健太郎総長が公用車で構内に入ってきた時に、山本義隆さんがその車にしがみつくんですよ。それで振り落とされちゃって大けがをしてね。半年入院して、それを機に山本さんは東大の運動を離れるんですよ。ただ、その後も本郷では、臨時職員闘争はずっと応微研や病院の労働者たちが持続的にやるし、時には医学部の人体実験糾弾とか、いろんなことが焦点化したりもするんですが、駒場のほうは、当時はもう完全に〝内ゲバ時代〟ですよね。解放派が大阪の革マル派の学生をひとり殺して、その報復で、革マルは全都動員で駒場に常駐して、駒場寮にいた解放派が雪隠詰めになっちゃってたのを最終的に民青に救い出される、というような出来事もありました。

その後はもう力関係的に解放派は駒場には公然と登場できなくなって、駒場寮の解放派の連中がどうなったのかはよく知りませんけれども、ともかく駒場は革マルの天下になっちゃったんです。ぼくらは七本(第七本館)の教室をひとつ分捕って拠点にしてたんですが、中枢部分がマル青同に行ったり、ぼくはべつに〝中枢〟でも何でもありませんでしたが、ぼくを含めて何人かは中核に行ったし、最後まで残ってた連中の中の主流派は、M君というのが中心で、彼も結局はブント系の「情況派」に行きました。
外山  
 〝最後まで〟というのは、いつ頃までのことですか?
森田  
 七四年の秋です。やっぱり同じ頃なんですよ、本郷と。駒場の運動も本郷の運動も、七四、七五年のあたりに完全にひとつ、断絶があるんです。

さきほど外山さんの『全共闘以後』をチラッと拝見しましたら、同時期の早稲田の状況と同じですね。いかに革マルといえども、部落研には手を出せません。そもそも駒場の部落研って、「全都・神奈川狭山差別裁判糾弾共闘会議」っていう解放派系が多数の部落研の組織があって、それに所属してるんだけど、なのになぜか解放派ではなく、駒場の部落研だけは協会派(社会党最左派)系なんです。メンバー全員が協会派というわけでもないんですが、どちらかといえば社会党に近い人たちですよね。だから、さすがに革マルも手を出せないから、そこを核として、徐々に非・革マル系の運動が、日学戦をコアにして復活していきます。あとは〝反原理〟ですね。
外山  
 部落研といい原理研問題といい、まったく早稲田と同じ手法で革マル派の支配をかいくぐるんですね。
森田  
 ええ、まったく同じです。
外山  
 東大そのものではなく駒場が、革マル派に制圧されてしまうわけですね? それが七四年ぐらい、と。
森田  
 本郷でも革マル派は「復活」しようとはしたんです。七二年か七三年の夏に、もともとは革マル派が握ってた文学部学友会を民青から再び奪還しようとして、一度だけ自治会選挙に立つんですよ。しかし本郷にはまだ解放派もいっぱいいましたからね。工学部にもいっぱいいましたし、新聞研究所研究生自治会を持っていたし、法学部の全共闘も解放派がメインで、しかも本郷キャンパスの真ん前にある本郷郵便局というのが、これがまた解放派の拠点でしたから、そんなところに革マルが出てこようものなら、もう……。見つけたら叩き出すって感じで、本郷にはそれ以降、もう革マルは公然と登場できなくなるのです。東大闘争後のある期間、民青が学内を制圧していたのと似たような状況です。逆に駒場のほうは革マルの制圧下となります。  〈次号につづく〉
【編集部より】本稿は、森田暁氏の記憶に基づいたものです。当時の情報等をご存じの方は、編集部までご一報下さい。info@dokushojin.co.jp
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