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更新日:2019年7月16日 / 新聞掲載日:2019年7月12日(第3297号)

細部の記述可能な演出、尽きせぬ魅力 ミカエル・アース『サマーフィーリング』

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7/6(土)より、シアターイメージフォーラムほか全国順次ロードショー
©Nord-Ouest Films - Arte France Cinéma - Katuh Studio - Rhône-Alpes Cinéma
 ロレンスとゾエはホテルのエレベーターに乗り、ゾエの幼い息子は二人を追って螺旋階段を駆け上がる。屋上に出た三人を、夏の夜の大気が包む。ロレンスとゾエは柵に手をかけ、パリの夜景を眺める。ロレンスは訛りのあるフランス語で話しかけ、ゾエが煙草を吸いながら返す。交互に示される二人の表情が素晴らしい。カメラは柵を越えている筈だが、その不自然な位置からこそ自然に見える表情が捉えられることに、映画の面白みがある。

ミカエル・アースの『サマーフィーリング』には、夏の夜の屋上がもう一度登場する。一年後のニューヨークでのことだ。建物の屋上でロレンスの姉妹の誕生会が開かれ、参加者たちは音楽に合わせて踊る。その楽しそうで自由な動きが忘れ難い。ダンスが終わると、彼らは自身の恥しい経験を順番に告白する。年も国も違うとはいえ、夏の夜の屋上で人々が心を通わせる光景が繰り返されている。

誕生会のダンスは、一年前にパリで開かれたパーティーのダンスの反復でもある。こうしたダンスの動きは、影踏みやウォールハンドボールの動きにも引き継がれる。フランス東部のアヌシーで、息子が母のゾエの影を踏もうとしてはしゃぐ。ゾエも楽しそうだ。その一年後に、彼女とロレンスはニューヨークの公園でウォールハンドボールに興じる。球技を始める時の、靴を飛ばすようにして脱ぐゾエの動作がいい。どちらの場面でも、夏の陽射しのもとで溌剌と動く身体が、手持ちカメラにより生き生きと捉えられている。

物語はベルリンでのサシャの死から始まる。彼女はゾエの姉で、ロレンスの恋人だった。ゾエとロレンスはそれまでお互いをあまり知らなかったが、サシャの死の苦悩を共有することで親しくなる。そんな二人が過ごす、ベルリンとパリ、ニューヨークの三つの夏の物語。二人は互いに頼り合いながら、それぞれ苦悩を乗り越えようとする。恋人の死から二年経ち、ロレンスはようやくニューヨークで新たな人生を見つける。ゾエは姉の死後、新たな困難に直面していたが、彼女もやはり心の整理がついたようだ。喪の物語。やや大袈裟に言えば、死と再生の物語である。

しかし、映画の感動は、ありきたりとも言えるこの物語の枠組みに起因しているのではない。人物の表情や動き、あるいは夏の自然に関する何かといった細部が感動的なのだ。喪失感に苛まれた表情や、人に心を開く時のより明るい表情、あるいは階段を駆け上がる動きや繰り返されるダンス、さらには夏の空気や光に観客は胸を打たれる。「夏のあの感じ」という原題が示す、言葉にしがたい何かが映画の真の主題だ。それらを通じて語られる死と再生の物語という枠組み自体は凡庸でしかない。

問題は、何故そうした細部は感動的なのかということだ。それらが現実の生々しい断片だからでは決してない。映像の指示作用は意味作用により常に裏切られ、いかなる映像も虚構でしかないからだ。だがこの細部は、意味作用に還元不可能な、指さすことしかできない剰余享楽の具現化にすぎないように見える。けれども、屋上での切り返しが計算された演出の産物であるように、優れた細部は必ず周到に演出されている。『サマーフィーリング』の尽きせぬ魅力は、何より細部のこうした記述可能な演出にある。

今月は他に、『旅のおわり世界のはじまり』『スノー・ロワイヤル』『守護教師』などが面白かった。また未公開だが、ジュリア・ミュラの『見出された記憶』も良かった。(いとう・ようじ=中央大学教授・フランス文学)
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