外山恒一連続インタビューシリーズ「日本学生運動史」 もうひとつの〝東大闘争〟 山本義隆に並ぶもうひとりの巨頭Оさん 「東大反百年闘争」の当事者・森田暁氏に聞く⑧|書評専門紙「週刊読書人ウェブ」
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もうひとつの〝東大闘争〟
更新日:2019年7月19日 / 新聞掲載日:2019年7月19日(第3298号)

外山恒一連続インタビューシリーズ「日本学生運動史」
もうひとつの〝東大闘争〟 山本義隆に並ぶもうひとりの巨頭Оさん
「東大反百年闘争」の当事者・森田暁氏に聞く⑧

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外山 
 さっき云ってた「8・25共闘」の崩壊というのは……。
森田 
 つまり、みんなマル青同に行っちゃうわけですよ。マル青同といっても、あれでも最初はそれなりにマトモな党派だったんです。そのマル青同に「8・25共闘」の中心的な活動家が移行して、なくなっちゃうんですね。東大駒場でも〝スカスカになった〟というほどでもないけど、五〇人規模ぐらいだったノンセクトが、二〇人規模ぐらいになりました。いなくなったうちの何人がマル青同に行ったのかまでは分かりません。おそらく十人近くは行ってるはずです。
外山 
 いや、お訊きしたかったのは、何というか、「8・25共闘」が弱体化していくのと、革マル派が駒場を制圧しちゃうのと、どっちが先なんですか?
森田 
 それは並行して起きたことですね。闘争課題がなくなってしまったというのも大きいんでしょう。七四年に盛んに云われてたのは〝狭山闘争〟とか……〝三里塚〟のピークはもうちょっと後になるでしょ。当時すでに鉄塔(成田空港建設反対派の拠点)の撤去反対の署名とか、『辺田部落』〔註1〕の上映会なんかはやってましたし、援農にはもちろん行ってましたけど。東大の場合は、都立大全共闘と一緒で、三里塚に援農に行く時には「しだれ梅」っていう団結小屋に泊まることになってました。ただ、ぼくも途中で中核派に逃げちゃった人間ですから、「8・25共闘」の最後の頃の状況はよく分からないんですよ。しかも七五年には本郷に進学しちゃうわけですし……。

ただその頃、七三年にH・Sという、それまでの東Cノンセクトの流れとは異質な発想のできる有能な男が駒場に入学します。国立高専中退というのも変っていますが、長らく詩吟をやっていたとのことで右翼的な発想も理解できる人物でした。たしか大江健三郎のとった銀杏並木賞をとったことがあるらしいです。駒場でチャップリンの映画を上映したりしていました。駒場の社研というサークルに入ったり、あと東大闘争の被告団の救援会みたいなのもあって、そういうのを経由して登場してきて、駒場ではとくに学生運動的な活動はやらなかったみたいだけど、本郷に来てから、〝東大百周年記念事業粉砕〟っていう動きがあったんで、それをネタにしていろいろやり始める。それまで文学には「文学部行動委員会」、「L行」っていうのがあったんだけど、名前だけで、実際にはとくに何も活動はしてなかった。それをH・S君たちが七六年ぐらいから、文学部を中心に署名運動とか、いろいろやって、それがある時に……やっぱり七八年に〝管制塔〟〔註2〕がありますでしょ。あれが雰囲気を盛り上げるんです。
外山 
 あれは……そうでしょうねえ。
森田 
 それでそもそも盛り上がってるところに、文部省というのは学生運動を盛り上げるためにあるのか、「4・20通達」というのを出すんですよ。〝学内で政治活動をさせてはいけない〟みたいな通達で、そんなの出たらみんな喜ぶじゃないですか(笑)。それでますます動き始めて、一般大衆も盛り上がるわけです。七八年というのは〝ミニ68年〟でした。ぼくなんかは押っ取り刀で、「自治会が獲れるからお前も来いよ」って、元都立大全共闘で東大に入り直したロートルに云われて行ってみただけなんだけど、ほんとに学生大会で圧倒的勝利しちゃって、その後に続く選挙でも、学生大会議長選挙で、文学部なんて六八〇人ぐらいしかいないのに、三八〇票とか獲っちゃうんです。在籍数の過半数を超える〝圧倒的支持〟で自治会を獲って、ちょうどそんな時期の本郷キャンパスを、小学生の頃の明石さん(「読書人」現編集長)がご訪問なさったんですね。
外山 
 それも七八年のことなんですね。
森田 
 その後、三回ほど文学部三番大教室で三百人規模の大衆団交を行ない、三回目は徹夜断交になりました。夏休み明けに、折原浩さんが近著『東大闘争総括』で詳述している東大文学部長室火災が発生します。結局火事は何が本当の原因だったのか、よく分らないんですけどね。だけど普通はそんな、火事なんか起きちゃったら運動は雲散霧消するはずなんだけど、なにせトップにOさんという大衆運動の手練れがいるもんだから(前回参照)。ほんとに彼はすごいんですよ。ビラひとつとっても、的確なビラを出していく。
外山 
 そのOさんという人が、七〇年代半ば以降もずっと本郷にいるわけですね?
森田 
 山本義隆なき後……、あれは七二年だったと思うんですが、東大当局がまた滑稽な、「以下の二名の者の立ち入りを禁ず、山本義隆、○○○○」っていう掲示を門のところに貼り出すんです。今も明治大学や早稲田大学なんかに貼ってあるじゃないですか〔註3〕。あれと同じですよ。
外山 
 じゃあもう、Oさんは、かの山本義隆と並べられるぐらいの〝二大巨頭〟だったんですね。
森田 
 そうそう、まさに〝二大巨頭〟でした。Oさんとは付き合いはなくなってしまったけど、今はどうしてるんだろう……。彼にインタビューしたら、もっと細かい話を聞けると思いますよ。

 〈次号につづく〉
〔註1〕ドキュメンタリー映画の小川紳介監督による〝三里塚シリーズ〟の六作目。一九七三年制作。
〔註2〕一九七八年三月二六日、開港直前だった成田空港の管制塔に、第4インター・戦旗日向派・プロレタリア青年同盟の三派共闘部隊が突入し、内部を破壊、開港を延期させた事件。
〔註3〕明大を拠点としていた解放派が二〇〇〇年前後から〝内々ゲバ〟を起こして、明大構内でも血みどろの争いを繰り広げた。結果、当局が解放派活動家を構内立ち入り禁止とした。なお早大に貼り出してある類似の掲示は、革マル派活動家ではなくノンセクト活動家の立ち入りを禁じるもの。
【編集部より】本稿は、森田暁氏の記憶に基づいたものです。当時の情報は編集部まで。
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