アウシュヴィッツの巻物 証言資料 書評|ニコラス・チェア(みすず書房 )|書評専門紙「週刊読書人ウェブ」
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読書人紙面掲載 書評
更新日:2019年7月20日 / 新聞掲載日:2019年7月19日(第3298号)

アウシュヴィッツの巻物 証言資料 書評
貴重極まる発見・解読・歴史再現
広く長く参照されるべき名著

アウシュヴィッツの巻物 証言資料
著 者:ニコラス・チェア、ドミニク・ウィリアムズ
翻訳者:二階 宗人
出版社:みすず書房
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『サウルの息子』は第六八回カンヌ国際映画祭でグランプリを獲得した衝撃的作品(二〇一六年一月公開)であった。ハンガリー出身の新鋭監督が描いたのは、ユダヤ人捕虜の部隊ゾンダーコマンド(特別作業班)の過酷な労働と彼らが起こした一九四四年十月、アウシュヴィッツ=ビルケナウ収容所の蜂起、その挫折であった。四十数万のハンガリー・ユダヤ人は四四年春から夏にかけソ連軍が東方からドイツ軍を撃破しつつ押し寄せてくるなかで、連行され殺戮された。映画はこの「地獄の心臓部」、毒ガスによる大量殺戮の現場での特別班員の生きざまを生々しく衝撃的な映像の連続で描いた。

だが、この新鋭映画監督の迫力ある仕事を可能にしたのは、戦後約七十年間に収容所敷地内の地中から発掘・発見されたゾンダーコマンドの証言資料や写真であった。それらは世界の歴史研究によって判読困難な部分が解明され、文学的心理学的解釈の積み重ねで内容が豊かになった。本書はそうした研究の総合的到達点を示している。

ユダヤ人ゾンダーコマンドの班員にとって最も過酷なのは、ガス室への引っ立て・閉じ込め、大量の死体のガス室からの搬出よりも、クレマトリウム(死体焼却炉)あるいは焼却坑での作業だったという。敗戦が濃厚になると、骨の粉砕、灰の河川投棄など犯罪の徹底的な証拠隠滅作業までもが彼らに強制された。だが、ナチが大量殺戮の隠蔽工作をしようとすることが、かえって、ゾンダーコマンドに殺戮の記録・証拠を残すことの重要さを確信させた。しかし、文書証拠を地中に残し、後世に伝えることに成功したのは彼らのうちごく少数であった。その貴重極まる発見・解読・歴史再現が、本書の醍醐味である。
ゾンダーコマンドは大量殺戮の物的証拠として、ガス室で殺されたユダヤ人の大量の歯を死体焼却場の周辺の地中にばらまいた。そうした行為も確かに極限状態における復讐心と抵抗意思の表現であった。しかしながら、それより幾層倍の精神的強靭さが必要なのが極秘手書き文書の作成と保管であった。インクが尽きるなかで強い筆跡でかすれた字、ひっかくような跡を残しつつ書き続けた痕跡、「記述の圧縮」。これらはいかに劣悪な状況でペン・インク・紙を手に入れたか、血のにじむ現場体験がいかにして書き溜められたかを彷彿とさせる。壊れたガラス容器などにつめ地下に埋められた手書き文書は、収容所解放後すぐに見つかったものもあれば、二十年以上たって見つかったものある。当然にも保存状態は悪く、相当な部分が判読不可能であった。しかし、解読できた手書き文書は、「個人の人格を目に見えるかたちで再認識させてくれる」ものであり、「原文だけがもつ力」を持っていた。彼らを支配するあからさまな主要な感情は抑圧者であるナチに向けられた復讐心であった。

「何があっても流れに押し流されず、自分を見失ったりしない」人間はごく少数であった。「感情を保ち、憎悪し続けるための苦闘」を続けたザルマン・グラドフスキ(第二章)は、死体焼却工程の細部を書き留めた。「最初に火が付くのは髪の毛である。皮膚は火ぶくれを起こして盛り上がり、数秒で裂ける。すると腕や足が動き始める。……いまや死体全体が激しく燃え上がり、皮膚は割れ、脂肪が流れ出し、……炎が音をたてて燃え上がる。……最後に焼けるのは頭部である。すると眼孔から二本の細く、青い炎がちらちら明滅する。なかの脳みそとともに眼球が燃えている。……いまや口のなかで舌も燃えている。このすべての工程に要する時間は二十分である」と。

第三章は一九四五、五二、六二年に見つかった三つの文書を検証し、ラングフスの作として読み解く。彼の文書にもガス室の描写がある。そこには『サウルの息子』の直接の原点となったと思われる記述もある。「閉ざされた空間に倒れている死者は、他者の上に五層、六層にも重なり合い、その高さは一メートルにもなった。……彼らのなかには私の妻と子供がいたことがあとでわかった」と。

「終局の準備 ザルマン・レヴェンタルの抵抗史」(第四章)は、二十六歳の班員の短い手書き文書、六二年十月に見つかった彼の長めの文章などの紹介と検討である。特に四四年十月七日の蜂起へとつながるレジスタンスの計画と襲撃についての記述が貴重である。

「筆跡と手紙 ハイム・ヘルマンとマルセル・ナジャリ」(第五章)のなかで最も鮮明に記憶に残る証言をあげれば、自分の妹が死んでいるものと思い、炉のなかに投げ込んでしまった班員のことである。彼女は「お兄さん、私はまだ生きているのに、私を、火炎のなかに血を分けた兄が投げ込んだ」と絶叫したという。

「カメラの眼 ビルケナウからの四枚の写真」(第六章)が明らかにする写真の成り立ちを読むとき、はじめてその意味と重要性の理解が可能になる。写真は鮮明ではない。しかし証言や写真分析から、ガス室そばの広い敷地に積み上げられた大量の生々しい死体、そのあちこちで焼却作業に携わるゾンダーコマンド、焼却坑から立ち上がる煙が浮かび上がってくる。煙は二十四時間で一二〇〇から一四〇〇人の死体を焼却する焼却坑(全部で五本あり、計六~七千人の死体焼却能力)から立ち上っていたのだ。ポーランド地下抵抗運動から書籍に隠して持ち込まれた写真機で撮影された。わずか四枚の写真だが分析により撮影者の心理状況が詳しくわかる。被写体の何が問題になり、なにが撮影を鈍らせたのかもわかってくる。

本書を貫く問題意識は、一方でホロコースト否定論への根底的批判であり、他方で被害・加害双方の生き証人のインタヴューでホロコーストを暴露することに成功した『ショア』の監督ランズマンに対する批判である。彼は文書資料と歴史研究とに対する嫌悪を表明し続けた。これに対し、本書はインタヴュー映像では把握できない歴史の現場をリアルに明らかにする研究の意義を立証した。その意味で本書は広く長く参照されるべき名著だ。
この記事の中でご紹介した本
アウシュヴィッツの巻物 証言資料/みすず書房
アウシュヴィッツの巻物 証言資料
著 者:ニコラス・チェア、ドミニク・ウィリアムズ
翻訳者:二階 宗人
出版社:みすず書房
以下のオンライン書店でご購入できます
「アウシュヴィッツの巻物 証言資料」出版社のホームページはこちら
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