百鬼園 戰前・戰中日記 上 書評|内田 百閒(慶應義塾大学出版会)|書評専門紙「週刊読書人ウェブ」
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読書人紙面掲載 書評
更新日:2019年7月20日 / 新聞掲載日:2019年7月19日(第3298号)

百鬼園 戰前・戰中日記 上 書評
百閒新発表日記に見る戰前・戰中の内実

百鬼園 戰前・戰中日記 上
著 者:内田 百閒
出版社:慶應義塾大学出版会
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 晩年の内田百閒を描いた黒澤明の「まあだだよ」という映画がある。中年になった元教え子たちが集まり、百閒に(死ぬのは)「まあだかい」という意味で摩阿陀会というのを作り、賑やかにやる話である。これに、とぼけた味わいの随筆や小説、藝術院会員に推されたのを「イヤダカラ、イヤダ」と電報を打って断った話などから、百閒はとぼけた、しかし芯の通った人という印象をもつ。

しかし、昭和十一年から十九年までの新発表の日記を読むと、内実はなかなかそうでもなかったろうと当然のことに気づかされる。妻との間に二人の男子を儲けつつ、百閒は昭和四年に愛人の佐藤こひとの生活を始めている。四十歳になる年のことだ。そして昭和九年には、勤めていた法政大学で、同じ漱石門下の野上豊一郎一派と森田草平との争いが起こり、百閒は野上らとともに辞職、野の人となる。しかし百閒は人気小説家ではない。随筆が多少売れていたというだけで、かつ借金もあった。

何しろ、読み始めて驚くのは持病の結滞(不整脈)の発作に関する記述の多いことで、読んでいてこちらまで気分が悪くなるほどだ。どうもこれは外出していたりすると起こらない、「無為」の状態で起きやすいものらしく、心因性のものではないかとすら思える。あと、百閒の交友関係は、米川正夫と妹の箏曲家・文子、また宮城道雄などのほかは、漱石の次男というよりは文藝春秋社の編集者としての夏目伸六、フランス文学者の辰野隆、そして主治医の小林が頻繁に現れるくらいで、菊池寛や久米正雄のような当時の華やかな文士たちとの往来はほとんどない。そのことは、文筆で立つことが必ずしも容易ではなかった百閒の状況とも関係あるだろう。あちらから、書いてくれと言ってくるのを待つのではなく、自ら売込んで売文していく、そういう当時の生活への不安が「無為」という記述や結滞と無関係ではあるまいと思われてならない。

だが昭和十四年、辰野の推薦で百閒は日本郵船の嘱託となる。待遇は良かったようで、一室が与えられて給仕もついたが、その仕事は社の文書の推敲であった。社の機関紙にも執筆している。はじめはタクシーで出社しており、具合が悪いと休んでいた。のちになると電車通勤になる。百閒が文士らしいことをしたのは、昭和十五年四月、新田丸が竣工して大阪まで披露航海をした際に文士らが乗り組んで座談会をやった時、文春の佐佐木茂索らと相談して人選をし、梅原龍三郎、辰野、里見弴、大佛次郎、川端康成、横光利一、吉屋信子らが乗り組んだ時のことだろうが、これとて百閒と特に親しい顔ぶれではない。

昭和十七年の日記現物は欠けているが、四月分まで書き写したものが巻末に載っている。ところがこの間に結滞の記述がなくなり、代わって一年ほど喘息の発作に悩まされている。百閒は「喘息煙草」というもので発作を抑えているが、子供のころから煙草を喫っていたという百閒は、酒も好きだったし、よくこんな病身が八十過ぎまで生きたものだとひやひやする。むしろ、人間の生活が大変なものだと感じさせられる記述に満ちた日記だと言えるだろう。
この記事の中でご紹介した本
百鬼園 戰前・戰中日記  上/慶應義塾大学出版会
百鬼園 戰前・戰中日記 上
著 者:内田 百閒
出版社:慶應義塾大学出版会
以下のオンライン書店でご購入できます
「百鬼園 戰前・戰中日記 上」出版社のホームページはこちら
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