貧しかったが、燃えていた 昭和の子どもたち 書評|庄司 丈太郎( 南々社)|書評専門紙「週刊読書人ウェブ」
マイページで記事のブックマーク!
ログイン
マイページ登録

トップページ

特集

書評

連載

コラム

ニュース

読書人とは マイページ

  1. 読書人トップ
  2. 書評
  3. 読書人紙面掲載 書評
  4. 芸術・娯楽
  5. 写真
  6. 貧しかったが、燃えていた 昭和の子どもたちの書評
読書人紙面掲載 書評
更新日:2019年7月20日 / 新聞掲載日:2019年7月19日(第3298号)

貧しかったが、燃えていた 昭和の子どもたち 書評
写し出された「剥き出しの喜怒哀楽」
「かろうじてある」自由と寛容の可能性

貧しかったが、燃えていた 昭和の子どもたち
著 者:庄司 丈太郎
出版社: 南々社
このエントリーをはてなブックマークに追加
ここには、主に一九六〇年代から八〇年代までの釜ヶ崎、沖縄、鳥取、島根、神戸、広島、寿町、山谷の子どもたちの姿が写し出されている。その中でも釜ヶ崎の子どもたちの写真が最も多い。

一九四六年に米子で生まれた庄司丈太郎は「賀川豊彦のようになろう」と思い、高校卒業後、神戸のミッションスクールに進学する。ボランティアで釜ヶ崎に牧師と行ったとき、貧しい子どもに献金を求めることに疑問を感じる。ミッションスクールの校長にそのことを泣いて訴えると、二日後に彼は停学処分を下された。一九六八年にふたたび釜ヶ崎に行き、今度は日雇労働者として働きながら子どもたちと遊び、仲良くなった子どもを撮影するようになる。なお、ぼくは一九八六年に釜ヶ崎に行き、日雇労働者として働きながら、この写真にも登場する子どもの施設でアルバイトなどで子どもたちと関わってきた。その意味で、彼の後輩にあたる。

釜ヶ崎は労働、差別、貧困、医療、福祉の矛盾が集中する「日本の縮図」として知られているが、一九七〇年代半ばまでは子どもたちが多くいる「子どもたちの街」でもあった。庄司丈太郎は「寛容で、剥き出しの喜怒哀楽を許すような自然」が釜ヶ崎には「まだかろうじてある」「『真っ裸でも歩ける街』なんです」と言う。写真から現われてくるのは、多種多様な人たちや社会の矛盾の中で生きる子どもたちの「剥き出し」のたくましさなのかもしれない。ここに写し出される子どもたちの表情は信じられないほど多彩で、こちらに向けられる眼と表情はやわらかい。当時、釜ヶ崎では年間三〇〇人前後が路上死していた。また、小柳伸顕の『教育以前―あいりん小中学校物語』に詳しいように、釜ヶ崎には不就学の子どもが二〇〇人近くいて、無戸籍、虐待、ネグレクト状態にある子どもも多かった。子どもたちは「登校する小学生とアンコちゃん(日雇労働者)」「熟睡中のアンコちゃんと子ども」のように労働者や野宿者との関わりの中で写し出されている。印象的な「カメラを向けると踊り出した女の子」では、ゴミが散乱する三角公園で、円座で話し込む労働者、路上テレビに見入る多くの労働者を背景に二人の子どもが踊っている。時には一緒に遊び、時には「うるさい」と怒られたりしながら、子どもたちと日雇労働者は同じ空間の中で生き続けてきた。警官の暴行や賄賂に対して率直に怒り、暴動をも起こす労働者の「剥き出しの喜怒哀楽」は、子どもたちと遊びかわいがる態度と同居していた。労働者も子どもたちも、他の地域ではあり得ないような自由と寛容の中を生きていたのだ。

現在、釜ヶ崎は、労働者の多くが生活保護へ移り、子どもの数が激減している。その一方、労働市場「あいりん総合センター」の移転・縮小が進められ、隣接地に星野リゾートが建設されつつあるなど「再開発」の動きが進んでいる。急速な釜ヶ崎の変化は、この写真集に写し出された「かろうじてある」自由と寛容の可能性をかき消していくのだろうか。
この記事の中でご紹介した本
貧しかったが、燃えていた 昭和の子どもたち/ 南々社
貧しかったが、燃えていた 昭和の子どもたち
著 者:庄司 丈太郎
出版社: 南々社
以下のオンライン書店でご購入できます
このエントリーをはてなブックマークに追加
生田 武志 氏の関連記事
読書人紙面掲載 書評のその他の記事
読書人紙面掲載 書評をもっと見る >
芸術・娯楽 > 写真関連記事
写真の関連記事をもっと見る >