外山恒一連続インタビューシリーズ「日本学生運動史」 もうひとつの〝東大闘争〟  一九七八年十一月、文学部学生大会における〝圧倒的勝利〟 「東大反百年闘争」の当事者・森田暁氏に聞く⑨|書評専門紙「週刊読書人ウェブ」
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もうひとつの〝東大闘争〟
更新日:2019年7月26日 / 新聞掲載日:2019年7月26日(第3299号)

外山恒一連続インタビューシリーズ「日本学生運動史」
もうひとつの〝東大闘争〟  一九七八年十一月、文学部学生大会における〝圧倒的勝利〟
「東大反百年闘争」の当事者・森田暁氏に聞く⑨

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森田 
 当時の東大全共闘の〝二大巨頭〟というと、山本義隆さんとOさんですが、医学部にも本田さんという青医連(青年医師連合)の人がいました。この方の場合、すべて話が大きくなっちゃって、数百人程度の集会を千人と書いてしまうんです。そういう〝指導部〟みたいな人たちがいました。駒場の時は〝上の人〟とかまったくいないけど、本郷というのは、〝指導部〟のいるノンセクトなんです。もちろん基本的には学生内部で討論して、自分たちがやりたいようにやってるんですよ。しかし状況が煮つまると、〝締め〟が来ることもあります。〝査問〟めいたこともありましたから。
外山 
 だって年齢的にもだいぶ違うでしょ?
森田 
 山本さんやOさんとは一〇歳違います。で、とにかく〝査問〟の話ですよ。N君っていう、今はさる有名大学の教授ですが、……単に卒業するだけなんですけど、「卒業させん」と云われるんです。ぼくなんかは、もともといい加減な人間だけど、ぼくらの中では彼だけが、高校生の頃からきちんと左翼の経験がある奴だったんです。ぼくらには一応、H・Sっていうキャップがいたんだけど、こいつはもう、活動能力はすごくあるとはいえ、もともとは左翼でも何でもないから、やっぱりOさんとしては心配だったんでしょう。「お前は卒業してはいかん」って、応用微生物研究所の会議室で朝まで延々やられて、結局はNも「分かりました。もう一年います」って返事をしました。

Oさん自身は東大闘争の時はML派だったし(これは東京地裁で、目の前で警察から返却されたヘルメットを現認しているから間違いありません)、やっぱり中核派みたいに何か一発パーンと花火みたいなことをやるのには反対で、ほんとに根っからの毛沢東主義者なんですよ。「根拠地戦をやるんだ」っていう、「持久戦」をやらなきゃいけないんだから、そういうパーッと派手なことをやりたがるのは嫌いみたいでね。Oさんがいつまで本郷にいたのか分かりませんけど、彼がいたから、ぼくらは東大文学部長室で火事が出た〔前号参照〕にも関わらず、十一月ぐらいに文学部の学生大会をやってみると、そもそも〝圧倒的勝利〟だったということもあるのですが、民青の票は全然伸びずに、引き続き〝圧倒的勝利〟で学生からの支持が続きました。それでまたストライキを打ってみたりして……私たちの流れの学友会執行部が十年くらい続いたはずです。その代わり、火事の時に文学部長室にいたぼくらは、半年間学外でウロチョロしちゃいけないってことになりましたけどね。まあそれはそうでしょう。ただ、警察の捜査でも一度、本富士警察署に行って事情聴取はされましたけど、それだけです。
外山 
 さっきから、その〝火事〟というのがよく分からないんですが……。
森田 
 あ、本郷の文学部長室を占領してたんです。すごく広いんですよ。会議室も一緒になってるような部屋で、そこをずっと占領というか、名目としては〝座り込みを続けてる〟ことになってましたけど……。
外山 
 それがいつ頃からなんですか?
森田 
 七七年から続けてて、一年目にさしかかるぐらいのところで、火事が発生するのです。それで一挙に状況が変わってしまうわけです。大変でしたよ。産経新聞の一面に実名で載りましたからね。『週刊新潮』にも載りました(笑)。
〈次号につづく〉
【編集部より】本稿は、森田暁氏の記憶に基づいたものです。当時の情報は編集部までご一報下さい。info@dokushojin.co.jp。
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