中平卓馬をめぐる 50年目の日記(15)|書評専門紙「週刊読書人ウェブ」
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中平卓馬をめぐる 50年目の日記
更新日:2019年7月23日 / 新聞掲載日:2019年7月19日(第3298号)

中平卓馬をめぐる 50年目の日記(15)

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「顔」の撮影がすむと、暗くなるのを待ってフィルムの現像をするのがいつもだった。

普通は全暗黒のもとで蚊取り線香のような形状のステンレスのリール(ベルトに巻く方式のタンクもあったが)にフィルムを挟み込んでタンクに入れ、蓋をして明るい場所で現像作業をするのだが、中平さんの初期はプラスティックの蓋付きのバケツに現像液や定着液を入れておいて、そこにフィルムを浸して現像、定着の処理をしていた。このやり方だと終わるまで全暗黒を保っていなければならない。

定着液に浸してしばらくすれば明かりをつけられた。そしてフィルムの水洗をして乾燥し、それから引き伸ばし機を使ったプリント(紙焼き)をする。どこから調達したものだったかは知らないが中平さんのところには小型の引き伸ばし機がアパート二階の奥さんの兄の部屋に置いてあった。

奥さんの兄は医師で、大学病院に勤務していた。まだ若かったから、ほとんど病院で生活をしているような感じで逗子のアパートの自室には十日に一度くらいしか帰ってこない。妹夫婦のために、逗子の同じアパートに作業仕事用にでもともう一室を借りてくれていたとのだと思う。げんに私も部屋の鍵を持たされていた。だからしょっちゅう逗子に泊まることが出来た。

じっさい中平さんはその部屋を引き伸ばし部屋として使った。といっても黒いカーテンで窓を覆うでもなく、夜になるのを待ってしか進められない「自然暗室」である。そんなやり方の時期は短かったけれど読書新聞の「顔」の頃はそういう方法でしのいだ。私は赤いセーフランプの下でプリントした印画紙の水洗と乾燥の係をつとめた。

そんなときの翌朝は乾いたプリントのできばえを見て、大丈夫だという確認ができれば、中平さんは上機嫌になった。そして
「ホテルへ行こう」
といいながら階段を駆け下りる。

ホテルは「なぎさホテル」である。奧さんと息子、そして私もくっついて、そのホテルでの朝食が嬉しかった。ホテルは五分もかからないところにあった。その「逗子なぎさホテル」は昭和元年に開業し戦後すぐには米軍に接収されていたこともあった。昭和の終わりとともに閉館したのでいまはない。

鎌倉と違って逗子は駅を出ると鄙びてはいるがふとバタ臭さを感じさせた。観光客もほとんどいなく、いるとすれば葉山の方へ行く連中がバス待ちでちょっと暇をつぶしているという感じの人たちである。だが、海の方へ向かう道筋にある家々は庭も広い豪邸続きだった。途中の商店はそういう家々の賄いのために並んでいる風情だった。だから古いのにどこか仮設の町のような感じを受けたのかもしれない。なぎさホテルはそんな街の雰囲気によく合っていた。

十時までは朝の定食があった。ジュースと、ベーコンかハム添えを選ぶ卵料理、それにトースト、というシンプルなものだったが、卵料理にはフライドエッグ、ポーチドエッグ、スクランブルエッグ、ボイルドエッグ、プレーンオムレツの五種類があって、今日はどれにしようかと迷う時間が嬉しかった。

朝に限らず夕方にもよく行った。週末や休日でなければほぼがらんとしていて、つぶやくような声の出し方で十分に会話ができる静けさがよかった。中平さんはよくコーヒーと一緒にホットケーキも食べた。(やなぎもと・なおみ=写真家・東京造形大学名誉教授)     (次号へつづく)
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