久野収 寄稿 “連帯”の政治と哲学を ――グラムシと今日の思想 『週刊読書人』1962(昭和37)年9月10日号 1面掲載|書評専門紙「週刊読書人ウェブ」
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更新日:2019年7月28日 / 新聞掲載日:-0001年11月30日(第441号)

久野収 寄稿
“連帯”の政治と哲学を ――グラムシと今日の思想
『週刊読書人』1962(昭和37)年9月10日号 1面掲載

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第2回
共産主義者にとっての自由

アントニオ・グラムシ
紙面より
さいきん『現代資本主義』や『帝国主義の終焉』を書いて三〇年代のマルクス主義者時代の著作『社会主義の理論と実践』や『ファシズムの驚異』から転向したジョン・ストレチーは、マルクス主義者時代にコードウェルの遺稿集に序文を書いている。そこで彼は、「民主主義の保証する自由の重要さを私がどれほど痛切に感じているかは、あらためていうまでもありません。スペインの人民戦線政府の軍隊は、助けをもとめること急であります。もし彼らが敗ければ、彼らの今日の戦いがわれわれの明日の戦いになることはたしかです。私はそう信じる以上、私の義務がどこにあるかは明らかでしょう。」というコードウェルの手紙を引用しながら、つぎのようにのべている。

「さてコードウェルは共産主義者の一人であった。そして多くの人びとは共産主義者というものが民主主義的自由の危険な敵であると本気で想像している。もし共産主義者が民主主義や自由への愛着を宣言するとすれば、彼らはあざむくためにそうしているにすぎないのだと信じている。にもかかわらず、われわれは、民主主義と自由への愛着を、たとえば首相チェンバレンのようにたんに宣言するだけではなく、じっさい民主主義のために命をささげた共産主義者を目のまえに見るのである。人間は政治的マヌーバーのために戦ったり死んだりするものであろうか。ほんきで信じてもいない民主主義自由のために、家を捨て祖国を去って、外国におけるファシズムの野蛮な攻撃に身を挺しうるものであろうか。それでもコードウェルは共産主義者、しかも民主主義の自由のために命をささげた共産主義者であった。死は雄弁だといったのはエリザベス朝の詩人である。コードウェルの死は雄弁である。」

ストレチーは、共産主義者たちが民主主義的自由のために戦い死ぬ理由をどう理解すべきかの問題を、コードウェルの読者のまえに投げかけている。

グラムシの生涯にも戦場と牢獄という違いをべつにすれば、ストレチーがコードウェルにあたえた評価と同じ評価があてはまる。ファシズムの暴行から人間らしさと自由をまもるための運動の指導者として、ムッソリーニと正面から向きあいつづけたグラムシの共産主義を理解することは、共産党の内外を問わず必要なことだといえよう。
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