梅原 猛 寄稿 [三島由紀夫氏への公開状] 死せる“神の思想”の復活 ――「対話・日本人論」にひそむ誤謬 『週刊読書人』1966(昭和41)年12月5日号 1面掲載|書評専門紙「週刊読書人ウェブ」
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更新日:2019年8月4日 / 新聞掲載日:-0001年11月30日(第653号)

梅原 猛 寄稿 [三島由紀夫氏への公開状]
死せる“神の思想”の復活 ――「対話・日本人論」にひそむ誤謬
『週刊読書人』1966(昭和41)年12月5日号 1面掲載

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第2回
ハイデッガーの実存の意味

梅原 猛氏
思想家である私は文学者であるあなたの思想に対するあまりに感性的な解釈に疑問を感ずる点が多いのです。例えばあなたはハイデッガーの実存(イグジステンツ)を「ギリシア語のエクスタティコンから来ているので、遊魂、恍惚、などの意味を含む。」と解釈し、「実存から外に開かれるということは、結局、一種の恍惚感において開かれている。それでほんとうに自分が実存に到達すれば、そこでそういう恍惚感が起こって、それが外に開かれて、行動になっていくかという問題ですが、あらゆる人にそういうことを求めても無理でしょう。」(一六五頁)と言っています。あなたの解釈によれば、ハイデッガーは遊魂、恍惚の世界に向って行動することを教える哲学者で、篤胤や神風連の幽顕一貫という行動哲学と一緒になってしまうのですが、この解釈はあまり独創的で、これを聞けばハイデッガーも驚いて卒倒するかクシャミをするかくらいの価値があると思います。ハイデッガーの実存(イグジステンツ)という意味は、遊魂の中に行動するというような意味ではなく、存在するものの中に存在するものの一つとして存在する現存在(サルトルはこれを人間存在と訳しますが、誤訳ではないかと思います)が存在そのものがおおわれている状態からはなれ、おおいをとられた存在そのものの中に立つという意味であると思います。ここに主観性の立場、意志の立場に立つ近代ヨーロッパ哲学の存在論を存在そのものの立場、原自然そのものの立場に立つ存在論に転向させようとするハイデッガーの思想が示されているのですが、こういう雄大な思想論もあなたにかかると神風連と同じにされてしまうのです。

それは外国のことです。ナショナリストは日本のことについて論ずべきです。私は藤原定家という人は日本の美学の中心部に位いする人で、日本美について語るためにはぜひ一度定家を通らねばならないと思っています。正岡子規にはじまる近代日本の歌学者達はこの定家美学をクソミソにやっつけ今もなお定家美学はつまらぬものという偏見が残っていますが、私は日本の美を知るためにはどうしても定家は研究されねばならない人だと思います。あなたもだいたい同じ考えのようです。「定家が結局、自分を神にするために努力をして、死んだらほんとうに神様になっちゃった。……生きているときの定家はどうだったかと言うと、もうひどいものです、病気がちでね。しょっちゅう後鳥羽院なんかにからかわれて、後鳥羽院はわがままですから、定家が風邪をひいて寝こんでいると、かまわないからやって来いと言って、病気中ですから、もう帰りたいと言っても、後鳥羽院はまだまだと言う。おしまいには、ヘトヘトになって床を這って帰ると、それを見ていて笑うのですからね。そういうようなほんとうのおとぎ衆の屈辱のようなものを嘗めながら、自分を神にしている。」(一九二頁)
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