終戦と近衛上奏文 アジア・太平洋戦争と共産主義陰謀説 書評|新谷 卓(彩流社)|書評専門紙「週刊読書人ウェブ」
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読書人紙面掲載 書評
2016年11月18日

基礎となる事実をよく調べた労作 怪しげな陰謀説が流布される中で、本書刊行の意義は大きい

終戦と近衛上奏文 アジア・太平洋戦争と共産主義陰謀説
出版社:彩流社
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本書は、1945年2月に重臣の近衛文麿が天皇に早期終戦を説いた所謂「近衛上奏文」を分析・研究したものである。この上奏文が驚かされるのは、日本の敗色濃い中、そこに至るまでの昭和史を共産主義の陰謀によるものとし、とりわけ昭和初期以来戦争へと日本を導いて行った陸軍をその中核と見ていたからであった。普通は陸軍が一番共産主義勢力の弾圧に熱心であったと見られているのに、近衛は陸軍が日本の共産主義化を進めてきたというのである。

著者は、この陰謀説を追って、最初に「陸軍赤化説」を唱えた殖田俊吉の来歴を押さえる。
次に殖田の主張の根拠となったと見られる石原莞爾、片倉衷、浅原健三、宮崎正義らいわゆる満州組の「日満産業開発五カ年計画」の成立と展開の経緯が明らかにされ、その計画を彼らが実現しようとした林銑十郎内閣の組閣プロセスが検証される。ここで浅原健三・宮崎正義らは組閣本部から追放され彼らは蹉跌するのである。

次に、第二次近衛内閣前後の近衛新体制運動が検討され、財界や議会で激しい「アカ」批判が展開されたことが紹介される。それは、企画院事件・尾崎ゾルゲ事件らへとつながり、結局は近衛上奏文につながったと見られるからである。

このプロセスで殖田俊吉の説に有力な援護をしたのは2・26事件で陸軍から追放された真崎甚三郎ら陸軍皇道派であり、またそれに協力したのが吉田茂らの親米英派であった。こうして、殖田・吉田らは戦時中に憲兵隊に検挙されるに至る。「皇道(精神)」と「自由主義(経済学)」という一見正反対の勢力・イデオロギーが「反統制経済」「反陸軍主流」で一致するのだから、この一連の事件には一筋縄ではいかない複雑さが秘められていることが理解できよう。

著者は、近衛らが「陸軍赤化」の元凶と見たのは「陸軍統制派」と見られた池田純久少将だったので最後は池田についてかなり詳しく検討している。しかし、「支那事変」拡大派で日中戦争を日米戦争に導き込もうと画策した張本人と近衛らが見た池田は、実は「支那事変」不拡大派なのであり、ために天津軍から左遷されていたのであった。

コミンテルン陰謀説についても、ゾルゲが当時ほとんどスターリンから見放されており帰国しても強制収容所に送られていたのではないかとする最近の研究などから、著者は否定的である。

このように、多くの陰謀説と同じくこれらの「陸軍赤化説」の多くは空中楼閣であったことを著者は明らかにしている。

ただ、こうした陰謀説の多くは虚構だが、尾崎ゾルゲ事件のように、陸軍との関係が今一つわからないものが残るなどのことがあり、その意味で近衛の説のうち共産主義革命を心配した部分などを全面的に否定することはできないわけでもある。

本書は、基礎となる事実をよく調べた労作で、例えば最初に紹介した殖田の著作など評者も初めて知ることが多かった。

望蜀の感を述べれば、大分県関係者の登場人物がこの時代多いことを著者は初めて知って驚いたようだが、例えば引用元の清原芳治『昭和二十年慟哭の大分群像』(大分合同新聞社)は市販されており常識的なことだから、きちんとした研究が行われていないことに驚くべきであろう。著者にはできればもっと現地調査などをして欲しかった。

また、鮎川義介と満州の関係を書いていながら、井口治夫 『鮎川義介と経済的国際主義―満洲問題から戦後日米関係へ』(名大出版会)に触れられていないし、林銑十郎内閣組閣と石原莞爾・浅原健三らを扱いながら拙著『昭和十年代の陸軍と政治』(岩波書店)のような基礎文献に触れていないのは疑問である。また、「海軍軍令部総長」を「海軍軍司令部総長」としたり「臼杵市」を「白杵市」とするような間違いには注意すべきであろう。

しかし、怪しげな陰謀説が今日でもイデオロギーに関わらず流布され、読者の正確な事実認識を歪めている中、本書の刊行の意義は大きい。
この記事の中でご紹介した本
終戦と近衛上奏文 アジア・太平洋戦争と共産主義陰謀説/彩流社
終戦と近衛上奏文 アジア・太平洋戦争と共産主義陰謀説
著 者:新谷 卓
出版社:彩流社
以下のオンライン書店でご購入できます
2016年11月18日 新聞掲載(第3165号)
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