外山恒一連続インタビューシリーズ「日本学生運動史」 もうひとつの〝東大闘争〟  一九七九年〝一月一九日〟「東大闘争10年・全国学生集会」 「東大反百年闘争」の当事者・森田暁氏に聞く⑪|書評専門紙「週刊読書人ウェブ」
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もうひとつの〝東大闘争〟
更新日:2019年8月9日 / 新聞掲載日:2019年8月9日(第3301号)

外山恒一連続インタビューシリーズ「日本学生運動史」
もうひとつの〝東大闘争〟  一九七九年〝一月一九日〟「東大闘争10年・全国学生集会」
「東大反百年闘争」の当事者・森田暁氏に聞く⑪

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森田 
 一九七八年に、火事になる以前の話ですが、日学戦のKが斎藤まさしなんかを東大に連れてきて、どうネゴシエーションしたのか、文部省の「4・20次官通達」反対集会を、なんと日学戦と民青と協会派と三者一体で、安田講堂前でやるんです。信じがたい話でしょ。七八年ですよ?
外山 
 それでもさすがに革マル派はそこにも入れてもらえない、と。
森田 
 色々なかたちで近づいてはきましたけどね。シッシッと追い払って……。当時、革マル派はやたらとぼくら文有志を応援するビラを書いて、出すんですよ。「あの火事は実は放火で、つまり権力による謀略である」みたいなビラを出して、彼らなりに一所懸命、応援してくれるんです。しかし革マルに応援されてもねぇ。
外山 
 むしろ打撃ですね。
森田 
 あと、その頃の対外情勢なんですけど、七八年の一一月ぐらいに、京大から市田(良彦)がやって来るんですよ。市田君は知ってます?
外山 
 はい、分かります。
森田 
 アルチュセール論とかを書いてる市田ね。たしかもうひとり連れて、合わせてふたりで来たんだったと思う。で、「全国集会をやろう」って話になったんです。ついこないだ、『情況』に市田が回想記を書いてたから(二〇一八年秋号・「『俺が党だ』──ポスト〈68年〉の理論的悲哀」)、それで初めて分かったんだけど、実は実体はなかったんですよね。一応は年に一回、京大では一一月祭の前後に「全学一万人集会」とか銘打って、〝一万人〟であるかどうかはともかく、それなりにやってたみたいなんです。だけどそれも、そもそも実は中枢がスカスカだったという話を書いてましたもんね。おそらく彼らにもそういう事情があって、「全国集会をやる」といってもそれを担うだけの力量はないし、ぼくらも結局は日学戦に丸投げで依頼しちゃったんですよ。七九年の一月一九日〔註1〕だかに、「東大闘争10年・全国学生集会」ってのをやるわけです。それはいいんだけど、日学戦の当時のメインのスローガンは「北方領土奪還」なんですよ。
外山 
 その集会は、もちろん東大でやったんですよね?
森田 
 ええ、最初は文学部の教室を借りようと申請を出したんだけど、もちろん文学部教授会がそんなものオッケーするわけないし、じゃあ屋外でいいか、ってことになって、しかしあれはどういうルートだったのか、当時の向坊(隆)総長のところへ行ったら、工学部の大きな部屋を貸してくれてね。工学部はもともと向坊の〝地元〟で、その二号館だったかな。五〇〇人ぐらい入る教室でしたよ。
外山 
 何人ぐらい集まったんですか?
森田 
 実数は三五〇でしょう〔註2〕。
外山 
 それはもちろん東大以外からも……。
森田 
 学内動員は一五〇〔註3〕くらいだと思います。
外山 
 それこそ全国から集まった感じですか?
森田 
 そうですね。Kが集めたわけで、Kは中国派で、かつ「北方領土奪還」とか云ってたわけだけど、来てた面々もすごくて……。まず東京理科大の「民学同」(民主主義学生同盟)。
外山 
 あー……何でしたっけ?
一九七九年一月に記された手帳。一八日の欄に「12:00~全国」とある。(読者提供)
森田 
 ソ連派ですよ〔註3〕。また東洋大学にも民学同はいっぱいて、来てました。協会派も来てたな。第4インターも参加してたから、彼らの機関紙の『世界革命』の一面にも集会報告が載りました。……当日の三日ぐらい前に、こっちが獲ってた文学部の自治会室に革マルがやって来て、早稲田の商学部の連中だったかな、まあこっちはノラリクラリとやって、お引き取りいただいたんですけどね。第4インターは東京学芸大から女子学生が来てました。そもそもぼくらの側の中枢にはインターの奴がいたし、〝3・26〟(管制塔占拠)の後に辞めたという奴ですけど、まあインターが来るのはべつに不自然じゃないんです。

それから解放派って、単純なんです。当日いきなり来るんですよ? 本郷にだって解放派はいるんだから、そこらへんを通して事前に根回しでもすればいいのに……いや、一応は事前に宇都宮大学自治会から電話があったのか。だけどこっちとしては〝内ゲバ三派(中核派・革マル派・解放派)は入れない〟って方針を掲げてたんで、それを説明して、当日も参加させなかった。革マルは、前日に彼らだけで安田講堂前で集会をやってましたね。しかし革マルにとっては、〝安田講堂での敵前逃亡〟〔註4〕の話は、本当に触れられるのもイヤなことみたい。

ぼくは実は、一九七二年一月一九日に、革マルの安田講堂三周年集会に見物に行ってるんですよ。神奈川大襲撃で逆につかまって殺された金築が来いって云うから。その時にも思ったんだけど、あそこは部隊の動かし方が上手くてね。その七九年の時も上手かった。東大(本郷キャンパス)の門って、あちこちにあるでしょ。で、不忍池のすぐ脇のところに池之端門というのがあるんです。そこから部隊を入れて、東大病院の建物の中をスーッと駆け抜けさせて、一挙に登場したらしい。
外山 
 つまり、途中で見つかったら阻止されちゃうってことですか?
森田 
 そりゃあそうです。まともに本郷三丁目から来たら、とてもじゃないけど革マルは入れてもらえません。
外山 
 その監視網の穴を見つけて……。
森田 
 ぼくも、彼らがどうやって入ってきたのか、後から知ったんですから。……しかしだんだん話が雑駁になってきたな。
外山 
 いやいや、知らない話ばっかりで、とっても有意義です。
〈次号につづく〉
〔註1〕市田良彦氏の同論文では末尾に、「一月一九日」は記憶違いであり、友人から提供された「一月一八日正午開催」とあるビラが掲載されている。また今回、当時の手帳(予定表)を提供してくれた読者がおり、その記述においても「一八日開催」だったことがうかがえる。
〔註2〕四〇〇~五〇〇人という証言もある。
〔註3〕一九六四年、〝ソ連派〟として共産党を除名された幹部たちが中心となって結成した「日本共産党(日本のこえ)」という党派の学生組織)。
〔註4〕安田講堂事件の際、中核派、ML派、解放派などは大部隊を東大に集結させてバリケード防衛したのに対し、革マル派だけが内部機関決定で最小限の人員しか配置しなかった。
【編集部より】本稿は、森田暁氏の記憶に基づいたものです。当時の情報は編集部まで。
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