蜜蜂と遠雷 書評|恩田 陸(幻冬舎)|書評専門紙「週刊読書人ウェブ」
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更新日:2016年11月18日 / 新聞掲載日:2016年11月18日(第3165号)

蜜蜂と遠雷 書評
言葉を駆使して音を鳴らす 現代の日本で天才たちが集ったドラマ

蜜蜂と遠雷
出版社:幻冬舎
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蜜蜂と遠雷(恩田 陸)幻冬舎
蜜蜂と遠雷
恩田 陸
幻冬舎
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「天才たち」が集まると、絵になり物語が生まれる。たとえばギリシアの哲学者たちが一堂に会する『アテナイの学堂』は、ルネサンスの画家ラファエロの絵画作品になっているが、ソクラテス、プラトン、アリストテレスをはじめ歴史に残る賢人たちが集う様子は、画家の絵心をそそるのはもちろん、見る者にもそこでどんな会話がなされどんな叡智が生まれるか好奇心をも〓き立てる。ラファエロがこの絵の登場人物のモデルとして当時の偉大な画家や文学者を描いたというのも「天才たち」の集いに抗いがたい魅力を感じたからであろう。

だが悲しいかな、現代の日本を舞台にした表現で、天才たちを集合させるとリアリティのないご都合主義的な側面ばかり浮かび上がってしまう。しかし作家・恩田陸は設定と描写に巧妙を尽くし、我々の同時代、この国における「天才たちの集まり」を小説にしてみせたのだ。
『蜜蜂と遠雷』の舞台は、日本国内で開催される(架空の)芳ヶ江国際ピアノコンクール。世界に羽ばたく絶好のチャンスに天才たちは引き寄せられるように出場する。ハイブリッドな血筋と見事なルックスを持ちスケール感のある音楽を奏でるマサル・カルロス・レヴィ・アナトール、天才少女の名をほしいままにしながら母の死をきっかけに表舞台から去った栄伝亜夜、音楽界に多大な影響を持つユウジ・フォン・ホフマンが「ギフト」と呼んだ風間塵……。コンクールとは、見る/見られる関係を凝縮した構図である。ここにはたくさんの「見る目」が描かれる。審査員たち、取材するテレビ局の社員、家族、友人、そしてライヴァルでもあるコンテスタントたち。見る/見られるの関係は同時に、与えられる/与える関係にもなりうる。たとえば生活者の音楽を表現すべく楽器店に勤め家庭を持ちながらコンクールに挑む高島明石がかつて憧れを抱いていた栄伝亜夜の演奏に耳を傾けながら心が満たされていく描写。そこで明石は見る者でありながら与えられる者であり、亜夜は見られながら与えているのである。天才は「与えられしもの(ギフテッド)」と呼ばれるが、見る者に与えるために神から才能(ギフト)をもたらされ、見る/見られる、与えられる/与えるという単純な構造をぶち破ったさらにその先が見える人のことを言うのであろう。閉じ込められた音楽をもっと広い場所に連れていく、それはあるいは空の果てまで……亜夜と塵がふたりでピアノを弾きながら高みに昇ってゆくシーンは、その先にある「音楽」というものの本質を雄弁に物語っている。

当然ながら、この小説の音楽の描写は感動的だ。あたかも本の行間からそれぞれの奏者のピアノの音が聞こえてくるかのよう。たとえば天才的なピアニストが登場する漫画『のだめカンタービレ』では、音は人物たちの表情や音符の羅列によって表現されるのみで、だからこそ映像化された時に具体性を帯びた音に魅力を感じたが、『蜜蜂と遠雷』は、言葉を駆使して音に近づき音を鳴らそうと試みている。審査員・三枝子の親友である作家の亜弓の言葉に、音楽の世界と小説の世界は似ているとあった。音楽と小説も似ているのかもしれない。ピアノという誰でも知っている楽器の音を、そしてそれぞれの天才たちによって奏でられる差異を、曲の世界観を、言葉を尽くすことによって人に想像させること。作家・恩田陸自身がどこまで音楽に似た言葉、似た小説を書けるかチャレンジした軌跡をじっくり味わいたい。
この記事の中でご紹介した本
蜜蜂と遠雷/幻冬舎
蜜蜂と遠雷
著 者:恩田 陸
出版社:幻冬舎
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