加賀乙彦 寄稿  サイケデリック芸術論 ――LSD幻覚と文学 『週刊読書人』1968(昭和43)年6月10日号 1面掲載|書評専門紙「週刊読書人ウェブ」
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  5. 加賀乙彦 寄稿  サイケデリック芸術論 ――LSD幻覚と文学 『週刊読書人』1968(昭和43)年6月10日号 1面掲載
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更新日:2019年8月11日 / 新聞掲載日:-0001年11月30日(第715号)

加賀乙彦 寄稿
サイケデリック芸術論 ――LSD幻覚と文学
『週刊読書人』1968(昭和43)年6月10日号 1面掲載

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第4回
サイケデリック文学の始祖

考えてみたら私たちの現実世界はまことに狭くかたっ苦しい。精神はいつも明晰で、知覚は正確である。人々は狂暴を忌み嫌い、自殺をおそれ、犯罪を抑圧する。自分の日常世界を忠実に描写しただけの小説、主人公が発狂すると大団円になる小説、あるいは犯罪者が逮捕されれば何もかもおわってしまう小説、これらの使いふるされた型を飽きもせず書いている作家は、多分、現実世界を素朴に信じていけるのであろう。

しかし、一見堅固な現実世界は肉体に加えられた一撃でもろくも崩れ去ってしまうのだ。その一撃は高々数十ガンマーというLSDの粉末でもいいし、キリーロフのように癲癇の発作でもいいし、あるいはごく物理的な状況――墜落や頭への打撃――でもいい。ビルの窓の外には確実な死があるのに誰も窓からとびださないように、私たちはちょっとした操作で垣間見うる別世界を見ないで生きている。日常生活ならば、こういった態度は私たちの安全を保証するといえるが芸術の世界では、それは怠慢のそしりをまぬがれえない。

それではサイケデリック・アートが現実世界に対して持つ意義はどこにあるのか。それとも積極的な脱出なのか、または現実世界への抗議なのか。むろん精神拡大をいずれの方向に利用しようと芸術家の勝手である。美酒に酔い生活を楽しむことにも意義はあるし、この牢獄じみた文明社会を嫌って幻想へと脱出することにも意識があるであろう。しかし、私としては、第三の未知、現実世界への抗議こそがサイケデリック・アートの本道であると考えている。現実のかたわらに現実ばなれのした幻想を並べるのではなく、この世界の反世界を描く、言うならば現実世界を裏側から照射する芸術こそが創造されるべきなのだ。文学でいえば一瞬の中に永遠を経験するヴィジョンの世界や極度に濃縮された死刑囚の時間から、突如として日常的現実へと舞いもどり、こうして幻想と現実とを包含する巨大な文学空間をつくりだしたドストエフスキイの方法が大切なのだ。サイケデリック文学の始祖としては、ポオやネルヴァル型の作家よりもドストエフスキイを選ぶべきだと私は思う。(かが・おとひこ氏=作家) 
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