外山恒一連続インタビューシリーズ「日本学生運動史」 もうひとつの〝東大闘争〟 二〇〇〇年代まで残った東大新左翼 「東大反百年闘争」の当事者・森田暁氏に聞く⑫|書評専門紙「週刊読書人ウェブ」
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もうひとつの〝東大闘争〟
更新日:2019年8月16日 / 新聞掲載日:2019年8月16日(第3302号)

外山恒一連続インタビューシリーズ「日本学生運動史」
もうひとつの〝東大闘争〟 二〇〇〇年代まで残った東大新左翼
「東大反百年闘争」の当事者・森田暁氏に聞く⑫

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森田 
 やっぱり「8・25共闘」の話は、すごく重要だと思うんですよ。何が重要かって、マスコミで取り上げられるような〝ノンセクト〟というのは、最首悟さんみたいな、ああいう〝自己否定〟で、〝文学的〟な感じのイメージでしょ。実際はそうじゃないんです。完全にみんな、〝党派志向〟なんです。ただ〝内ゲバ三派〟はダメだ、と。ブントももはやダメだ、と。「叛旗派」〔註1〕もダメだし……。
外山 
 〝党派志向〟なんだけど、現実に魅力的な党派がないっていう。
森田 
 〝反党派的な党派志向〟なんでしょうね。やっぱりスターリニズムは嫌いなわけですよ。荒(岱介)さんなんか可哀想で、〝あれ(戦旗・日向派=荒派)は第二革マルだ〟って、完全に規定されちゃってましたから。ぼくらの中にも荒派の奴はひとりいて、いい奴だったんですけど、そっちについて行ったのはひとりだけで、他は誰も行かない。それでもその後、荒派も多少の人気が出てきたのは、三里塚管制塔を占拠するため〝3・26〟を三派でやった中のひとつだからですよね。それ以外の話を聞くとやっぱりねえ……。七〇年代の最初の頃には、まだ西田輝(両川敏雄)〔註2〕とも一緒だったんだから、それなりにマトモなグループだったはずなんですけど、荒自身にどうも、今ひとつ問題があったんでしょう。叛旗も、あんなのは〝趣味人〟グループだからダメだ、と。
外山 
 七五、七六年に〝自主解散〟しますよね〔註3〕。
森田 
 ほんとに一、二年の差で、七〇年ぐらいまではまだ、小野田(㐮二)の『遠くまで行くんだ…』グループ〔註4〕にも実体があっただろうし、そもそもノンセクトが好む党派って、おおよそ決まってるわけじゃないですか。まず小野田グループがあって、叛旗派があって、(内ゲバで体質が変わってしまう以前の)解放派があって、その次ぐらいが(とにかく勇ましい)中核派で……革マルは〝悪魔〟であるっていう。そこは世代によって全然違ったりもして、〝68年〟の真っ只中の世代だと、日共=民青が〝悪魔〟なんですよね。七一年大学入学のぼくなんかの感覚では、むしろ一時は革マルとかなり深く付き合ってもいたくせに、やっぱり革マルが〝悪魔〟なんです。〝前衛党〟意識がイヤだというわけではないんですけどね。
外山 
 ……話がちょっと戻りますが、さきほど、八二、八三年に駒場の自治会をノンセクトが獲ったという話があったでしょ。それまでは、もうずーっと民青なんですか?
森田 
 うん、ずっと民青です。
外山 
 全共闘の時代も含めて……。
森田 
 いやいや、全共闘の時の六八年六月に、構造改革派の「フロント」派が自治会委員長を獲るんですよ。今村俊一って人ですね。その半期だけで、その半年後は、そもそも自治会選挙そのものをやってないはずです。そこらへんは東大闘争の歴史の本を読むと出てくるんですが、東大闘争の渦中で、自治会委員長の今村俊一は民青からものすごいリンチを受けて、それはもう大変なものだったらしいですよ。それでも今村俊一が屈服しなかったから……。

代議員大会を主催するのは自治会委員長なんですけど、しょうがないから民青は委員長抜きで、寮の屋上で代議員大会を開くっていう、ここらへんは結構有名な話です。代議員というのは各クラスから選出されてきてる人たちですから、それで正式に代議員大会を開いたということになるのか、そこらへんはよく分かりませんが、そこで新しい自治会委員長がもちろん民青から選ばれて、それがその後ずっと継承されていくことになる。そういうメチャクチャな経緯で作られた〝第二自治会〟みたいなもんだから、解放派なんかは自治会そのものを認めてなくて、候補も立てませんよね。〝民青自治会だから〟反対してるわけではなくて、そういう経緯があるからなんですよ。駒場の〝寮〟の自治会は駒場・教養学部の自治会とはまた別で、別にそういう話はなく、フツーにずっと継承されてきた自治会なんで、やっぱり基本的には民青が獲ってるけど、解放派も候補を立ててました。

ノンセクトも最初は、解放派と一緒で、教養学部自治会の選挙そのものをボイコットしてたんですけど、七〇年に方針を変えて、「一一月闘争委員会」を作って候補者を立てる、という最初の話につながるわけです。そこらへんは面白くて、七一年あたりにいろんな揺らぎがあって、七二年の秋口の駒場寮でも……。駒場寮の場合は「寮委員会」というのが自治会にあたるもので、その委員長は獲れなかったんだけど、それとは別に「総代会」というのがあるんですよ。それは寮のまあ〝直接民主制〟的な、各部屋から代表が集まっての話し合いの場ですね。その議長選挙が同数となって、結局ジャンケンで決めることになって(笑)、なんと解放派が勝っちゃうんです。そんな感じで、とにかく安田講堂で負けて東大からは新左翼系がいなくなった、なんてことは一切ありません。規模としても、東大闘争の一時期だけやたら桁が大きくなっただけで、その前と後を比べれば、あんまり変わらないんじゃないかと思います。六七年以前も、たぶん七〇年以降と同じような規模でずっと続いてた。本格的に壊滅したのはいつかと云えば、たぶん駒場寮闘争が終わった時〔註5〕じゃないですか。駒場寮闘争が続いてる間は、まだかなりの人数がいましたから。
〈次号につづく〉

〔註1〕一九七〇年に結成されたブント系の党派のひとつ。〝大衆の原像〟で知られる吉本隆明を顧問格にあおぐ党派で、ノンセクトからも一定の支持を集め、組織人数は百人余りだったが、集会には二千人を集めた。ただし集会に集うのはコアなノンセクト活動家ではなかった。
〔註2〕戦旗・西田派のリーダー。七二年明治大学記念館前火炎瓶闘争で大量逮捕者を出し、内部対立が激化、七三年六月に分裂した。当初は荒派より大きな勢力だった。
〔註3〕七六年末に解散決議をし、七七年二月に解散宣言を発表。
〔註4〕中核派と革マル派が分裂する以前の「革命的共産主義者同盟」の幹部で、分裂以後は中核派の幹部だったが、脱退して六八年に創刊した同誌がノンセクトにも熱心に読まれた。
〔註5〕二〇〇一年八月に寮生排除の上、寮が解体された。
【編集部より】本稿は、森田暁氏の記憶に基づいたものです。当時の情報は編集部までご一報下さい。info@dokushojin.co.jp
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