チャオは一体何に囚われているのか。 ジャ・ジャンクー『帰れない二人』|書評専門紙「週刊読書人ウェブ」
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更新日:2019年8月18日 / 新聞掲載日:2019年8月16日(第3302号)

チャオは一体何に囚われているのか。
ジャ・ジャンクー『帰れない二人』

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9月6日(金)より、Bunkamuraル・シネマ、新宿武蔵野館ほか全国順次ロードショー!
©2018 Xstream Pictures (Beijing) - MK Productions - ARTE France All rights reserved


やくざ者のビンとチャオ。この宿命の男女が五年振りに再会する。二人は夜の桟橋を渡り、さらに、降り始めた雨が濡らす階段を上っていく。男女の関係の決定的な瞬間にいつも雨が降る。この映画的な雨が、次に続く驚くべき場面の絶好の背景となる。それは一〇分弱のワンショットで示される室内の場面だ。二人は絶えず位置を変えながら会話を続け、カメラも二人に合わせて動き続ける。俳優とカメラの動きはことさらに複雑な訳ではないが、その一つ一つが常に的確だ。壁の二箇所に設置されたランプの一方だけが点灯しているのも、繊細な光と影を作り出している。「この手が俺を救ったのか」と、チャオの左手を握りながらビンが言うと、「私は左利きじゃない」とチャオが返す。二人の間に横たわる溝。厄落としのため、ビンは新聞紙に火をつけてたらいに入れ、チャオがそれを跨ぐ。だが、この儀式が何の役に立つのか。このやるせない再会から一〇年以上経つと、さらに壮絶な場面が連続する。そこでは、愛と呼ばれる筈だったがそうした言葉では収まらない異様な何かが、チャオという女の心を貫いている。

ジャ・ジャンクーの『帰れない二人』が、再会した男女の室内の会話を編集による省略なしに描くのは、この時間がチャオにとってこの上なく重要なものだからだ。一方で、この映画は様々な出来事を見せずに済ましてもいる。例えば、実業家のアーヨンが殺されるのも、ビンの別の女との恋愛関係や脳出血も一切描かれていない。これは画面で見せずに想像力に訴えるということではない。この映画があくまでチャオの物語を語っているからなのだ。後に恋愛関係に陥る女とビンが初めて会う場面のみ描かれているのは、そこにチャオが同席しているからだ。時が流れ、その女が恋愛関係をチャオに告白する場面では、初めは、言葉をかわす二人の女の顔を交互に切り返すのに、告白の段になるとカメラはそれを聞くチャオだけを撮り続ける。重要なのは相手の女ではなくチャオの表情だからだ。ビンを襲った二人の若者をチャオが問い詰める時も、カメラは若者ではなく彼女の表情を捉え続ける。ジャ・ジャンクーの演出と編集はこのように極めて論理的である。

一七年に及ぶ物語のなかで、チャオは様々な乗り物を用いて移動を繰り返す。バス、自動車、客船、バイクタクシー、そして列車。一見、こうした乗り物に対立するのがビンの車椅子のようだ。車椅子も移動手段だが、むしろ男の自由な移動を制限しているからだ。けれども、チャオは自動車に乗っているとバイクの集団に襲われ、客船では女に財布と身分証を盗まれ、バイトタクシーの運転手には性的関係をもちかけられ、列車でも仕事を偽る怪しげな男に誘惑される。乗り物は明らかに不吉であり、それを通じてチャオは人に騙され、そして人を騙すことを覚えていく。彼女は石炭価格の暴落で仕事がない大同を出て、三峡ダムの建設により多くの人が立ち退く奉節に行く。そこからさらに、開発が進むとされるウルムチに向かうが、辿り着けずに大同に戻るしかない。ビンの車椅子と同様、チャオの様々な乗り物も真の移動の自由をもたらさない。彼女はその壮大な旅路にも拘らず、囚われの女なのだ。だが、彼女は正確には一体何に囚われているのだろうか。

今月は他に、『さらば愛しきアウトロー』『天気の子』『アスリート』などが面白かった。また未公開だが、ロウ・イエの『シャドー・プレイ』も素晴らしかった。(いとう・ようじ=中央大学教授・フランス文学)
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